開国・江戸時代(幕末)【日本の歴史】

日本の歴史
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  1. 開国・江戸時代(幕末)【日本の歴史】
      1. 黒船(くろぶね)の到来【1853年】
      2. マシュー・ペリー(1794~1858年)
      3. 松下村塾(しょうかそんじゅく)ができる【1857年】
      4. 日米修好通商条約【1858年】
      5. 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)【1860年】
      6. 徳川家茂(とくがわいえもち・幕府将軍)と和宮(かずのみや・朝廷)の結婚【1862年】
      7. 生麦事件(なまむぎじけん)【1862年】
      8. 薩英戦争(さつえいせんそう)【1863年】
      9. 島津久光(しまづひさみつ・1817~1887年)
      10. 島津斉彬(しまづなりあきら・1809~1858年)
      11. 池田屋事件(いけだやじけん)【1864年】
      12. 新選組(しんせんぐみ)
      13. 禁門の変(きんもんのへん)【1864年】
      14. 高杉晋作が藩の実権を奪い返す【1864年】
      15. 高杉晋作(たかすぎしんさく・1839~1867年)
      16. 薩長同盟(さっちょうどうめい)【1866年】
      17. 江戸幕府が終わる【1867年】
      18. 徳川慶喜(とくがわよしのぶ・1835~1913年)
      19. 西郷隆盛(さいごうたかもり・1827~1877年)
      20. 坂本龍馬(さかもとりょうま・1835~1867年)
      21. 桂小五郎(かつらこごろう・1833~1877年)
      22. 戊辰戦争(ぼしんせんそう)【1868年】
      23. 戊辰戦争の流れ
      24. 松平容保(まつだいらかたもり・1835~1893年)
  2. まとめ

開国・江戸時代(幕末)【日本の歴史】

開国(鎖国の終わり)から江戸時代(幕末)の日本の歴史についてご紹介します。黒船でペリー到来、日本が鎖国を止めて開国。吉田松陰の松下村塾から巣立った生徒たちが、尊王攘夷派として活躍。混乱する日本が薩長同盟によって260年以上続いた江戸幕府を滅ぼすまでの物語。

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黒船(くろぶね)の到来【1853年】

1853年幕末、黒船(くろぶね・蒸気船)4隻を率いる「サスケハナ号」に乗ったペリー(アメリカ海軍人)が、浦賀(うらが・神奈川県)に開国を求めてやってきた。1641年から鎖国(さこく)をしていた江戸幕府は、オランダと清(しん・中国)以外の国との貿易は避けていた。幕府は大統領の手紙を持って開国を迫ってきたペリーに「1年返事を待ってほしい」と伝えて帰ってもらった。翌年、7隻の軍艦を率いるペリーが再び日本に到来した。これに圧倒された幕府は「戦っても勝てない」と悟り、アメリカと「日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)」を結ぶことにした。こうして200年以上も続いた鎖国政策は幕を閉じた。

マシュー・ペリー(1794~1858年)

マシュー・ペリーは、アメリカ合衆国・ロードアイランド州出身。「蒸気船の父(じょうきせんのちち)」と呼ばれた。日米和親条約を結び、日本の下田港(しもだこう・静岡県)と函館港(はこだてこう・北海道)をアメリカ船が使えるようにさせた。アメリカ船は下田・函館港で、食料や石炭を自由に買うことができた。ほかにも日本が他国と条約を結ぶとき、同じ条件をアメリカに与えるようにした。

品川台場(第六台場・東京都)

※幕府は江戸湾内に、対ペリー船の大砲台を6基地つくった。現在は第3基地と6基地のみ残る。「お台場(おだいば)」の地名の由来。

松下村塾(しょうかそんじゅく)ができる【1857年】

吉田松陰(よしだしょういん・長州藩士)は、清(中国)がイギリスにアヘン戦争で負けたことを知り、西洋の軍隊を学んだことから西洋に興味を持っていた。江戸でペリーの黒船艦隊を見て西洋文化をさらに知りたくなった松陰は、こっそり黒船に乗り込んで海を渡ろうとしたが失敗、牢屋に入れられてしまった。罪が許された後、過去におじが開いていた松下村塾(しょうかそんじゅく・山口県)で教師となった松陰は、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇をあがめて外国勢力を追放する考え)を教えた。ほかにも水泳や登山などの体育も教えた。約80名いた塾の生徒には、幕末から明治にかけて日本をひっぱった人物たちが育っている。高杉晋作(たかすぎしんさく・奇兵隊)や日下玄随(くさかげんずい)、伊藤博文(いとうひろぶみ・初代内閣総理大臣)や山県有朋(やまがたありとも・3代内閣総理大臣)、桂小五郎(かつらこごろう・薩長同盟を結んだ人物)など多く活躍している。翌年の1858年、幕府(井伊直弼・大老)が朝廷の許しがないまま「日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)」を結んだことに怒った松陰は、老中の暗殺を試みるが失敗、処刑されてしまう。松陰の志は、松下村塾の生徒に強く受け継がれていった。

松下村塾(山口県)

日米修好通商条約【1858年】

日米修好通商条約はアメリカにとって有利な条約。下田・函館の他、神奈川(横浜)や長崎、新潟や兵庫(神戸)の港をアメリカ船が自由に使用。アメリカの輸入品に日本が税をかける権利はなし、日本で犯罪をしたアメリカ人を日本の法律で裁けないなどの日本側に不利な内容だった。

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)【1860年】

公明天皇(こうめいてんのう)は、アメリカとの貿易に反対だったが、井伊直弼(いいなおすけ・大老)は条約を結ばなければアメリカに勝てないと考えた。朝廷の許しがないまま結ばれた日米修好通商条約(アメリカに有利な条約)は、尊王攘夷派(そんのうじょういは・天皇をあがめて外国勢力を追放する考え派)の武士たちを激しく怒らせた。しかし、直弼は逆らう尊王攘夷派を捕まえて100人以上処刑。1860年3月3日の大雪の中、うらみをもった尊王攘夷派の武士たちは、江戸城の桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で井伊直弼を討った。

桜田門(さくだらもん・江戸城)

徳川家茂(とくがわいえもち・幕府将軍)と和宮(かずのみや・朝廷)の結婚【1862年】

桜田門外の変の後、幕府の力は衰え、尊王攘夷派の動きが強くなっていた。公明天皇は外国がきらいだったが幕府を滅ぼそうとは考えていなく、むしろ朝廷と幕府の関係を強めて平和にしたいと願っていた。こうして幕府の徳川家茂(とくがわいえもち・14代将軍)と和宮(かずのみや・公明天皇の妹)は結婚、家茂は京都にいる公明天皇のもとへと訪れた。天皇と将軍が直接会うのは229年ぶりだった。このとき天皇は、外国勢力を追放することを幕府に約束させた。

生麦事件(なまむぎじけん)【1862年】

1862年、薩摩藩(さつまはん・鹿児島県)の島津久光(しまづひさみつ・鹿児島藩主・忠義の父)は、幕府に改革を求めて江戸にむかった。久光は朝廷と幕府の絆を深めて、尊王攘夷で混乱する日本を守ろうと考えていた。幕府と話が済んだ帰り道、「生麦村(なまむぎむら・横浜市付近)」で馬に乗ったまま久光(薩摩藩主)の行列を横切るイギリス人3名がいた。薩摩藩士(さつまはんし)はこれを無礼として、彼ら3名を切りつけて1名の命をとった。幕府を立て直そうと考える久光に対して、薩摩藩士たちは幕府を倒そうと考えていたのだ。その後、久光は薩摩藩士たちの考えに仕方なく乗り、幕府を倒そうと決意。生麦村付近で起こった「生麦事件(なまむぎじけん)」は、翌年の薩英戦争のきっかけとなった。

薩英戦争(さつえいせんそう)【1863年】

生麦事件で怒ったイギリス政府は大きな賠償金と犯人の引き渡しを薩摩藩に命令した。しかし薩摩藩はこれを断り、両者共に激しく対立。薩摩藩はイギリスとの戦争に備えて鹿児島湾沿岸に砲台(ほうだい)をつくった。1863年、軍艦7隻が鹿児島湾に攻めてきた。軍艦に備えつけられた大砲は最新式で、鹿児島の町は大きく焼かれた。一方の薩摩軍はイギリスの軍艦3隻を破壊した。互いに大きな被害が出たので仲直りすることになった。こうして「薩英戦争」は終わり、お互い力を認め合って協力するようになった。

勝敗:(引分)島津久光・忠義(薩摩軍)vsイギリス軍

薩英戦争砲台跡(鹿児島県南大隅町)

島津久光(しまづひさみつ・1817~1887年)

島津久光は(島津業興の5男・島津斉彬の弟)。斉彬(なりあきら)の死後、忠義(ただよし・久光の子)が藩主となる。久光は父として薩摩藩の実権をにぎる。

島津斉彬(しまづなりあきら・1809~1858年)

島津斉彬は日本を守るために西洋技術を学ぶ。軍事力を強めるため集成館(しゅうせいかん・工場地帯)で、武器や軍艦(ぐんかん・戦う船)などの鉄を作る反射炉(はんしゃろ)や溶鉱炉(ようこうろ)、ガラス工場や機械工場などを建てた。斉彬は篤姫(あつひめ・養女)を徳川家定(とくがわいえさだ・13代将軍)と結婚させて政治の実権をにぎろうとしたが、井伊直弼と対立。

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池田屋事件(いけだやじけん)【1864年】

過激な尊王攘夷派は、意見がくいちがう者を次々に暗殺していた。このため幕末の京都は危険な町になっていた。会津藩(あいづはん・福島県)の松平容保(まつだいらかたもり・会津藩主)は、荒れた京都を守るために幕府から京都守護職に任命された。こうして容保の手下として町を取り締まったのが「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」である。1864年、皇居を燃やして天皇を連れ去ろうと計画している長州藩(山口県)の尊王攘夷派が、池田屋(いけだや・旅館)に集まることを、近藤勇(こんどういさみ・新選組の組長)や沖田総司(おきたそうじ・新選組一番隊組長)らが嗅ぎつける。「御用改めである」と叫んで、新選組4人で、大勢の中に切り込んだ。激しい戦いの末、彼らは20名以上の尊王攘夷派を捕らえた。池田屋事件(いけだやじけん)で朝廷と幕府から褒美をもらい、朝廷から「新選組(しんせんぐみ)」の名があたえられた。

壬生屯所旧跡(新選組発祥の地・京都)

新選組(しんせんぐみ)

近藤勇と土方歳三(ひじかたとしぞう)は、多摩(たま・東京都)の農家出身。土方が剣術の稽古に努めているとき近藤勇と出会う。徳川家茂がつくった浪士組(ろうしぐみ)に参加した2人は京都にむかう。その後、近藤勇は松平容保に手下にしてほしいと頼み「壬生浪士(みぶろうしぐみ)」をつくる。池田屋事件で手柄をあげて「新選組(しんせんぐみ)」となってから新選組組長・近藤勇となり、土方は新選組副長として隊員をきびしく指導、最強の剣術集団をつくった。新選組は乱暴な浪人(武士)の集まりだったので、新選組のきまりはとにかく厳しかった。あまりのきびしさに、本来の戦いで命を落とす人数よりもきまりを破って切腹させられる者の方が、6倍以上もおおかったとされる。

禁門の変(きんもんのへん)【1864年】

池田屋事件を知った仲間の長州藩(ちょうしゅうはん・尊王攘夷派)は、幕府(14代将軍・徳川家茂たち)を倒そうと京都へ向かった。朝廷と幕府は、薩摩藩(鹿児島県)の西郷隆盛(さいごうたかもり)と会津藩(福島県)の松平容保らに皇居の禁門(きんもん・皇居の中にある門)を守るように命じた。長州藩(桂小五郎ら)の軍は蛤御門(はまぐりごもん・会津軍が守備した門)を攻め込んだが、薩摩軍が会津軍の応援にかけつけて長州軍を破った。禁門を攻め込んだ「禁門の変(きんもんのへん)」以後、幕府から長州藩は朝廷の敵と見られて「第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)」を起こされた。

勝敗(〇)松平容保・西郷隆盛【幕府】vs(✕)日下玄随【長州藩】

高杉晋作が藩の実権を奪い返す【1864年】

禁門の変で長州軍を敗った幕府は、長州藩に軍を向かわせた(第一次長州征伐・1864年7月)。攘夷(外交勢力の追放)を進める長州藩は、関門海峡(かんもんかいきょう・山口県)で欧米各国の外国船を砲撃。翌年、イギリスやアメリカらの軍艦に長州藩の砲台を破壊されて敗れた(下関戦争・8月)。その後、下関戦争に弱っているところを幕府に制圧されて降伏、長州藩の中でも幕府に味方する人たちが実権をにぎった(1864年11月)。一方の高杉晋作(たかすぎしんさく・元松下村塾生)は、吉田松陰先生が幕府に処刑されたこと知り、彼の志を受け継ぎ清(中国)へ渡った。欧米の手によって植民地化となった清(中国)を見て「日本もこのままでは植民地にされる」と考えた晋作は、江戸にあるイギリス公使館を燃やした。幕府に味方しない長州の藩主から、下関を守ることを命令されていた晋作は、身分関係なしに外国から長州藩を守りたいと思う人たちを「奇兵隊(きへいたい・西洋式の強力な軍隊)」に仕上げて、幕府に味方する藩の役所を攻撃した。こうして高杉晋作は、藩の実権を奪い返して長州藩を蘇らせた。

高杉晋作(晋作広場・山口県萩市)

高杉晋作(たかすぎしんさく・1839~1867年)

高杉晋作は長州藩の藩士の子で、長門(ながと・山口県)の出身。19歳の頃、松下村塾に入門、吉田松陰の志を胸に日本の未来を考えた人物。1866年、幕府(14代将軍・徳川家茂)は長州藩をたおすために10万の大軍で攻めた。一方の晋作は桂小五郎(かつらこごろう・長州藩)と共に、たったの4000人の奇兵隊で破った(第2次長州征伐)。幕府が滅びる前に、29歳の若さで病死してしまう。

薩長同盟(さっちょうどうめい)【1866年】

薩英戦争以来、攘夷(外国勢力の追放)を認めない薩摩藩(鹿児島)と、攘夷を認める長州藩(山口県)は、禁門の変で対立していたので仲が悪かった。島津斉彬(しまづなりあきら・久光の兄)の考えを継いだ西郷隆盛は「外国と貿易を盛んにして日本を強く、豊かにしよう」と考えていた。一方の吉田松陰(松下村塾の先生)の志を継いだ桂小五郎(かつらこごろう・元松下村塾生)は、「不利な条約を朝廷の許しがないまま結んで、反対した松陰を処刑した幕府を倒そう」と考えていた。「力を合わせて一緒に幕府をたおすべき」と考える坂本龍馬(さかもとりょうま・土佐藩)は、彼らの仲介人となった。「海援隊(かいえんたい・荷物を運ぶ船)」を持つ龍馬(元土佐藩士・高知県)は、薩摩藩の最新武器を長州藩へ、長州藩の米を薩摩藩へ運んで両藩を仲直りさせた。こうして「薩長同盟(さっちょうどうめい)」が結ばれた。一方それを知らない幕府は、第2次長州征伐を起こそうと薩摩藩に長州藩へ兵の要求をしたが断られた。仕方なく、幕府はそのまま第2次長州征伐を起こすが、長州藩は最新の武器を持っていたので大苦戦となった。さらに徳川家茂(14代将軍)が病死したことで、幕府軍は長州藩に敗れてしまう。

江戸幕府が終わる【1867年】

幕府が長州藩に第2次長州征伐で敗れると、いよいよ薩摩藩と長州藩は武力で幕府を倒そうとする。幕府は徳川慶喜(とくがわよしのぶ・15第将軍)に政権が移っていた。坂本龍馬は「薩長(薩摩藩・長州藩)が幕府と戦えば、日本の力は弱くなって外国に攻められてしまう」と考えた。そこで龍馬は戦をしないで幕府を終わらせようと企んだ。龍馬は船中で後藤象二郎(ごとうしょうじろう・土佐藩)に「将軍が朝廷に自ら政権を返す(大政奉還・たいせいほうかん)」などの国家の8つの方針「船中八策(せんちゅうはっさく)」を話した。その後、後藤象二郎から山内豊信(やまうちとよしげ・元土佐藩主)を通して徳川慶喜(江戸幕府15代将軍)に伝えられた。1867年10月、これを聞き入れた慶喜は政権を朝廷に返すことを告げた。これにより260年以上も続いた江戸幕府が終わりとなる。将軍をやめた慶喜だったが、朝廷の内大臣の位を握ったまま大きな領地を支配していた。幕府が滅びても、慶喜は「新政府(しんせいふ・朝廷)」に参加して政治の実権をにぎろうとしていたのだ。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ・1835~1913年)

徳川慶喜は江戸幕府15代将軍。大政奉還後、薩摩藩・長州藩からなる「新政府」に参加するつもりだったが、入れてもらえず対立。戊辰戦争に発展する。

西郷隆盛(さいごうたかもり・1827~1877年)

西郷隆盛は薩摩(鹿児島県)出身。薩摩藩の藩士として生まれ、18歳で役人になる。農業についての意見を藩に提出。当時の藩主・島津斉彬に能力を認められて世界・日本の政治を斉彬から学んだ。西郷隆盛は暗殺を恐れたので写真がきらいだった。欧米各国との戦いに敗れた長州藩は、攘夷はむずかしいと諦めたが、幕府を倒そうと考える人が溢れていた。これに西郷隆盛も影響を受けて「幕府を倒して日本を強くしよう」と考えた。その後、坂本龍馬の紹介で長州藩と「薩長同盟」を結ぶことができ、江戸幕府も滅ぼすことができた。

西郷隆盛像(鹿児島県)

坂本龍馬(さかもとりょうま・1835~1867年)

坂本龍馬は土佐(高知県)出身。土佐藩の商家として生まれ、19歳のときに江戸に出て、剣術修行をする。龍馬が土佐に戻ると、土佐藩は、朝廷と幕府を協力させようと藩の改革をすすめる山内豊信(当時の土佐藩主)と、尊王攘夷を目指す「土佐勤王党(とさきんのうとう)」とで分かれていた。龍馬はどちらの考え方でもないとして土佐藩を出て、江戸で勝海舟(かつかいしゅう・幕府の海軍指導者)と出会い、西洋の技術・文化を取り入れて日本を豊かにしようと考える。その後、「亀山社中(かめやましゃちゅう・薩長を結ぶ船)」をつくって薩摩藩(西郷隆盛)と長州藩(桂小五郎)に「薩長同盟」を結ばせた。「船中八策(せんちゅうはっさく・国家の方針)」を提案。徳川慶喜(15代将軍)に自ら朝廷に政権を返す「大政奉還」を決意させる。しかし、その1ヶ月後何者かに暗殺されてしまう。

桂小五郎(かつらこごろう・1833~1877年)

桂小五郎は長州藩(山口県)出身。医師の子としてうまれ、17歳のとき吉田松陰の「松下村塾」に入門。尊王攘夷の志を継ぐ。1864年、禁門の変で幕府に敗れる。同年、長州藩内部で幕府に味方する勢力を倒して高杉晋作(たかすぎしんさく・元松下村塾生)らと藩の実権を奪う。その後、坂本龍馬のおかげで薩摩藩・西郷隆盛と「薩長同盟」を結び、最新の武器を手に入れる。幕府が滅びた後は「木戸孝允(きどたかよし・改名)」となり、新政府の重役についた。1871年、廃藩置県など改革。

桂小五郎像 (京都市中京区)

戊辰戦争(ぼしんせんそう)【1868年】

大政奉還後、朝廷内で権力をにぎることを企んでいた徳川慶喜だったが、朝廷(新政府)から内大臣の位を下りて、領地を朝廷に納めるように命令されてしまう。これに怒った慶喜は朝廷と対立。1868年1月、京都で鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を起こした後、敗れた慶喜(旧幕府軍)は大阪から江戸へと逃げた。西郷隆盛ら新政府軍は、江戸城を攻撃して慶喜を倒そうとしたが、旧幕府軍の勝海舟(かつかいしゅう・龍馬の師匠)に戦わないで江戸城を新政府軍に渡すことを説得されて、江戸に攻撃することをやめた。慶喜は江戸城を渡して降伏、その後も旧幕府軍たちは各地で新政府軍と戦ったが全敗した。こうして一連の戊辰戦争(ぼしんせんそう)は新政府軍の勝利でおわった。

戊辰戦争の流れ

  • 1868年1月…鳥羽・伏見の戦い、旧幕府軍として新選組も参加。
  • 1865年5月…上野戦争、新政府軍がアームストロング砲で砲撃。
  • 1868年6月・9月…会津戦争、旧幕府軍の松平容保が敗れる。
  • 1869年5月…函館戦争、旧幕府軍の降伏。新政府軍の勝利。

松平容保(まつだいらかたもり・1835~1893年)

松平容保は会津藩(福島県)の藩主。28歳のとき、幕府から過激な尊王攘夷派から京都を守るために「京都守護職」に任命される。その後、手下の「壬生浪士(みぶろうしぐみ・新選組」が尊王攘夷派(長州藩)を池田屋で捕まえる(池田屋事件)。こうして容保は公明天皇から信頼されて、壬生浪士は「新選組」と名が与えられた。「薩長同盟」によって薩摩藩と長州藩の幕府を倒す動きが強くなった後、徳川慶喜(旧幕府15代将軍)は自ら政権を朝廷(新政府)に返した(大政奉還)。江戸幕府最後の将軍・慶喜は新政府に入れてもらえず、旧幕府軍となって新政府に戊辰戦争を起こす。容保(旧幕府軍)は、新政府軍に会津藩で会津戦争(あいづせんそう・戊辰戦争の一部)をしかけられる。会津若松城(あいづわかまつじょう)に立てこもった松平容保だったが、大人の部隊だけでなく、「白虎隊(びゃっこたい・子どもの部隊)」や女性まで協力する始末となった。「これ以上戦うとたくさんの人たちが戦死してしまう」と思った容保は、新政府軍に降参を宣言。捕まってしまったが、後に許された。

会津若松城(鶴ヶ城・福島県会津若松市追手町)

まとめ

  • 1853年…黒船の到来、ペリーが開国を迫る。
  • 1857年…吉田松陰が松下村塾を開き、尊王攘夷を教える。
  • 1858年…井伊直弼(幕府)が日米修好通商条約を朝廷の許しがないまま結ぶ。
  • 1860年…井伊直弼が桜田門外の変で尊王攘夷派にうたれる。
  • 1862年…徳川家茂(江戸幕府14代将軍)と和宮(朝廷)の結婚で日本の平和を企む。
  • 1862年…生麦事件、島津久光の行列を横切ったイギリス人らが薩摩藩士に切られる。
  • 1863年…生麦事件で薩摩軍とイギリス軍が薩英戦争で争い、力を認め合う。
  • 1864年…松平容保の手下「新選組」が池田屋事件で尊王攘夷派を捕まえる。
  • 1864年…池田屋事件を知った仲間の長州藩(尊王攘夷派)が禁門の変を幕府に起こす。
  • 1864年…高杉晋作の奇兵隊が藩の役所を攻撃。実権を奪って幕府に対立する。
  • 1866年…坂本龍馬が薩摩藩と長州藩に薩長同盟を結ばせて仲直りさせる。
  • 1867年…徳川慶喜(15代将軍)が朝廷に大政奉還して江戸幕府が終わる。
  • 1868年…朝廷から位と領地をとられた慶喜(旧幕府)が戊辰戦争を新政府に起こす。

以上で江戸・幕末時代【日本の歴史】のまとめとなります。

ありがとうございました。

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