安土桃山時代【日本の歴史】

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安土桃山時代・織田信長【日本の歴史】

安土桃山時代・織田信長の日本の歴史についてご紹介します。当時、最強と言われた「武田騎馬隊」を破った「長篠の戦い」から明智光秀が起こした「本能寺の変」までの様子が分かります。ほかにも徳川家康や豊臣秀吉も登場します。

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安土桃山時代

1567年、桶狭間の戦いで勝った織田信長は、美濃国(みののくに・岐阜県)にある岐阜城(ぎふじょう・稲葉山城)から手に入れた「天下布武(てんかふぶ・天下統一の印)」を持って、12代将軍・足利義明(あしかがよしあき・足利義春の子)とともに京都にむかった。安土桃山時代の初め、京都入りした義明を15代将軍の座につけて、信長は政治の実権をにぎろうと企む。こうして1568年、織田信長の「天下統一」が始まった。

岐阜城(岐阜県)

足利義明(あしかがよしあき・1537~1597年)

足利義明(あしかがよしあき)は、織田信長にお願いして15代将軍にしてもらった。しかし、政治の実権が彼ではなく信長が持っていることに気付く。しだいに信長と対立、京都から追放させられる。

比叡山(ひえいざん)を焼き払う【1571年】

15代・征夷大将軍になった足利義明だったが、いずれにしても政治の実権は織田信長がにぎった状態。彼は信長を倒そうと「信長包囲網(のぶながほういもう)」を張った。浅井氏(あざいし)や朝倉氏(あさくらし)の大名、比叡山(ひえいざん・滋賀県)の延暦寺(えんりゃくじ)や石山本願寺(いしやまほんがんじ)の宗教勢力と手を結んだ。しかし、織田信長は姉川の戦い(あねがわのたたかい)でこの大名たちを倒し、延暦寺全体を焼きはらって強力な僧兵たちも破った。その結果、足利義明は京都から追放。1573年、織田信長が室町幕府を滅ぼした。

比叡山の延暦寺(開運の鐘・滋賀県)

長篠の戦い【1575年】

織田信長が延暦寺を焼き払ったことで、武田信玄(たけだしんげん)と仲が悪くなった。一方の足利義明も信長にうらみを持っていた。義明側についた武田軍は、織田軍の同明・徳川家康の三河(みかわ)を攻めた。信玄の病死後、やむなく武田軍は戦いを引いた。これにより三河(みかわ・愛知県)・遠江(とおとうみ・静岡県)は徳川軍に戻った。1575年、500人の徳川軍・長篠城(ながしのじょう・三河)は、一旦撤退した1万5千の武田軍・武田勝頼(たけだかつより・信玄の子)に完全に包囲される。その後、これを聞きつけた約3万8千の織田軍・徳川連合軍が援軍として到着した。当時、最強の武田騎馬隊(たけだきばたい)だったが、織田軍が作った馬防柵(馬を防ぐ柵)や、降り注ぐ鉄砲弾には手も足も出せなかった。こうして「長篠の戦い」は、織田軍・徳川連合軍の勝利となった。

勝敗:(〇)織田・徳川連合軍【約3万8千】vs(✕)武田軍【約1万5千】

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安土城ができる【1576年】

1576年、織田信長は安土(あづち・滋賀県)に日本初の天守(てんしゅ・高層建築)・安土城(あづちじょう)をつくった。全体は石垣(いしがき)で固められていて、青いかわらや金箔で豪華に飾られた柱を持った城だった。天守は46メートルの高さがあり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)邸などが見えた。ほかにも信長は、キリスト教を保護して「教会」をつくった。町の人たちは、自由で伝統にこだわらないやり方に新しい日本を期待していた。

織田信長の城まとめ

  1. 名古屋城(なごやじょう・愛知県)…青春期を過ごした城。
  2. 清州上(きよすじょう・愛知県)…織田家を継いだ後の城。
  3. 小牧山城(こまきやまじょう・愛知県)…美濃(みの・岐阜県)の制圧でつくった城。
  4. 岐阜城(ぎふじょう・岐阜県)…天下統一を志すためにつくった城。
  5. 安土城(あづちじょう・琵琶湖東部)…日本初の天守がある城。

名古屋城(愛知県)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)【1537~1598年】

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、もともと今川家の家臣だったが、桶狭間の戦いで織田信長の家臣に付いてから「長篠の戦い」などに参戦している。

徳川家康(とくがわいえやす)【1542~1616年】

徳川家康(とくがわいえやす)は、1560年に起きた桶狭間の戦いまで今川義元の人質として捉えられていた。この戦いで織田信長に助けられて以降、織田軍と同盟を結んでいる。

本能寺の変【1582年】

浄土真宗の中心となっていた寺「石山本願寺(いしやまほんがんじ)」を、約10年かけて倒した織田信長は、中国地方を支配していた毛利氏を倒すために安土城を出発した。一方の明智光秀(あけちみつひで・信長の家臣)は、備中(びちゅう・岡山県)で戦う豊臣秀吉軍を助けるように信長に命令されて向かっていた。1582年、本能寺(ほんのうじ・京都)に織田信長が泊まっていることを知った明智光秀が「敵は本能寺にあり」と叫んだ。約1万3千の兵を率いる光秀が来たことを知った信長は「是非に及ばす(しかたない)」と呟く。こうして本能寺の変(ほんのうじのへん)が起きた。100名の兵を率いる信長は、明智軍の槍でキズを負ってしまった。その後、納戸(なんど・物置部屋)に隠れた信長だったが、最期は燃え盛る炎の中で自ら命を絶った。

勝敗(〇)明智光秀【兵力1万3千】vs(✕)織田信長【兵力100】

本能寺跡(京都)

明智光秀(あけちみつひで)【1528~1582年】

明智光秀(約40歳)は、数々の手柄を立てて出世していた人物。本能寺の変で織田信長を破り、日本の歴史を大きく動かした。それから11日後、知らせを聞いた豊臣秀吉(とよとみひでよし)軍と山崎(やまざき・京都)で戦いとなる(山崎の戦い)。こうして明智光秀は最期を迎えた。

まとめ

  • 1567年…織田信長は、足利義明を15代将軍にして政治の実権をにぎる。
  • 1571年…姉川の戦いで比叡山を焼き払って、信長が将軍を追放する。
  • 1575年…長篠の戦いで最強の武田騎馬隊を信長・徳川連合軍がたおす。
  • 1576年…日本初の天守・安土城をつくる。
  • 1582年…信長の家臣・明智光秀が本能寺の変を起こして織田信長は自ら命を絶つ。

以上で安土桃山時代・織田信長【日本の歴史】をまとめます。

ありがとうございました。

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