平安時代後期【日本の歴史】
平安時代後期の日本の歴史についてご紹介します。自分の子に天皇の位をゆずり上皇(じょうこう)となって政治をする「院政(いんせい)」や、平清盛(平氏)と源頼朝(源氏)が対立して「源平の戦い」になるまでの様子が分かります。
前九年の役(ぜんくねんのえき)【1051年】
1051年、「阿部氏・安倍頼時(あべのよりとき・東北地方の豪族の頭)と安倍貞任(さだとう・頼朝の弟)」が、朝廷に反乱を起こし、「前九年の役(ぜんくねんのえき)」が始まる。これに朝廷は源頼義(みなもとのよりよし)を向かわせた。彼は義家(よしいえ・頼義の子)を連れて出馬。悪天候と食料不足で苦戦を強いられたが、出羽の国(でわのくに・東北地方の西部)の清原氏(豪族)を味方につけて戦いを有利にすすめる。開戦してから12年が経った1062年、ついに源頼義軍(源氏)が勝利。この戦いにより源氏(天皇の子孫の一族・武士)の勢力は東北地方まで広まった。
勝敗:(〇)源頼義・義家(源氏)vs(✕)安倍頼時・貞任(阿部軍)
後三年の役(ごさんねんのえき)【1083年】
前九年の役で安倍氏を倒したが、出羽の国で共に戦った清原氏は東北地方で力を広げていた。その後、清原氏の間で後継ぎ争いが起こる。陸奥国(むつのくに・東北地方)の役人となっていた源義家(みなもとのよしいえ・頼義の子)は、源氏軍の藤原清衡(ふじわらのきよひら)を助けるために清原家平(きよはらいえひら・清原軍)のもとに攻めた。これが「後三年の役(ごさんねんのえき)」となる。見事に勝利した義家(よしいえ・源氏軍)だったが、朝廷からの褒美はなかった。しかし、義家は自分の財産を味方してくれた部下(東日本の武士)に与えた。
勝敗:(〇)源義家・藤原清衡(源氏)vs(✕)清原家平(清原軍)
源義家(みなもとのよしいえ・1039~1106年)
前九年の役では、わずか13の年齢で出馬した。源頼義(義家の父)の死後、源氏の頭となる。後三年の役では、たくみなセンスで勝利をつかむも朝廷からの褒美はなかった。その代わり義家は、自分の財産から東日本の武士に褒美を与えたことにより、源氏としての信頼をえた。
藤原清衡(ふじわらのきよひら・1056~1128年)
源頼義にたすけを求めた人物。後三年の役で勝利した後、東北地方を支配した。中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう・岩手県)を建てた。
中尊寺金色堂覆堂(岩手県)
院政(いんせい)【1086年】
1068年、平安時代の初期から中期にかけて力をもっていた藤原氏と親類関係がない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が位につくと、急速に藤原氏は立場が弱くなる。白河天皇(しらかわてんのう・1053~1129年)のときも親類関係がなかったので藤原氏は出る幕がなかった。それにより天皇が自ら政治をするようになる。1086年、白河天皇が34歳のときに、8歳になる自分の子に天皇の座をゆずり、堀川天皇(ほりかわてんのう)とした。こうして白河天皇は、「上皇(じょうこう・おさない天皇の代わりに政治をする元天皇)」となって、政治の実権をにぎりつづけた。白河上皇は堀川天皇の死後、おさない鳥羽天皇(とばてんのう)に位をゆずり、崇徳上皇(すとくてんのう)のときも鳥羽天皇から位をゆずらせて、43年間も政治の実権をにぎることになった。このように、天皇に代わって上皇が政治をおこなうことを「院政」とよぶ。ちなみに、白河上皇が建てた「院御所(いんのごしょ・上皇の家)」からとられた。
保元の乱(ほうげんのらん)【1156年】
白河上皇の死後、鳥羽上皇(とばじょうこう)が政治をする。鳥羽上皇は、白河上皇と同じように崇徳天皇から近衛天皇(このえてんのう)に位をゆずらせて、近衛天皇(このえてんのう)の死後、後白河天皇(ごしらかわてんのう・1127年~1192年)に位をゆずり、30年以上も院政をおこなった。一方、崇徳天皇は自分の子に天皇の位をゆずりたかったが、鳥羽上皇によって後白河天皇になったことに不満を持った。やがて崇徳天皇は後白河天皇をにくむようになって対立。崇徳上皇軍は、源氏の源為朝(みなもとのためとも・義朝の弟)を兵につけて、後白河天皇軍は源氏の源頼朝(みなもとのよしとも・為朝の兄)と平氏(天皇の子孫の一族・武士)の平清盛(たいらのきよもり)を参加させた。これが「保元の乱(ほうげんのらん)」である。
勝敗:(〇)後白河天皇軍vs(✕)崇徳上皇軍
源為朝(みなもとのためとも)
源為朝(みなもとのためとも・1139~1170年ごろ)は怪力があり、弓の名手でもあった。保元の乱では、源義朝(みなもとのよしとも・為朝の兄)の兜(かぶと・頭の防具)に当たるようにわざとぎりぎりで矢を放った。戦いに敗れた後は、伊豆大島(いずおおしま)に追放された。
崇徳上皇(すとくじょうこう)
崇徳上皇(すとくじょうこう)は保元の乱で敗れた後、讃岐国(さぬきのくに・香川県)に追放された。
平治の乱(へいじのらん)【1159年】
保元の乱(ほうげんのらん)で活躍した平清盛と源義朝だったが、後白河天皇は平清盛には褒美をおおく、源義朝には少しだけあたえた。実は平清盛は後白河天皇に認められていた信西(しんぜい)と仲がよかったので、肩入れ(ひいき)されたので褒美がおおかったのだ。理不尽な褒美の差があったがグッと我慢(がまん)して耐えた源義朝(みなもとのよしとも)。当時、信西と仲がわるかった藤原信頼(ふじわらののぶより)は、平清盛を消すように義朝(よしとも)にしむける。こうして「平治の乱(へいじのらん・1159年)」がおこった。
勝敗:(〇)平清盛(平氏軍)vs(✕)源義朝・藤原信頼(源氏軍)
源義朝(みなもとのよしとも・1123~1160年)
保元の乱で活躍した源義朝(みなもとのよしとも)は、平清盛との褒美の額に不満を抱いた。しかし実際は、彼の階級が低かったことが挙げられている。加えて、後三年の役で登場した源義家(みなもとのよしいえ)のように、自分の財産から武士に褒美を与えていなかったとされる。平清盛の部下によって東日本に逃げているところを討たれたが、もしかしたら東日本の武士の力を借りようとしていたのかもしれない。
源義朝(愛知県)
藤原信頼(ふじわらののぶより・1133~1160年)
平治の乱で後白河天皇が住んでいた三条東殿(さんじょうひがしどの)を源頼朝軍に攻撃させた。ライバルだった信西(しんぜい)も倒し、後白河上皇や皇居に住む二条天皇(にじょうてんのう)を連れ去った。しかし、藤原信頼(ふじわらののぶより)は敗れて討たれた。
平清盛(たいらのきよもり・1118~1181年)
後白河天皇と二条天皇を救った後、戦いに敗れた源義朝を倒した。天皇や貴族は「武士」の力をかりないと権力争いができないことが世の中に示された保元の乱。平氏の頭だった平清盛(たいらのきよもり)は保元の乱・平治の乱で勝利をおさめて朝廷の権力をもった。
平清盛(音戸の瀬戸・広島県)
平清盛が朝廷の職「太政大臣」になる【1167年】
日本の武士のトップとなった平清盛は、後白河天皇(ごしらかわてんのう)の妹と結婚。1167年、武士として初めて「太政大臣(だいじょうだいじん・朝廷の職)」につく。その後、平氏(天皇の子孫・武士)一族を高い位につけて全国の半分を支配した。音戸の瀬戸(おんどのせと・広島県)には航路を開き、「日宋貿易(にっそうぼうえき・中国と貿易)」をして福原(ふくはら・兵庫県)に大きな港をつくった。さらに航海の安全と貿易の繁栄を祈って「厳島神社(いつくしまじんじゃ・広島県)」を建てた。
厳島神社(世界遺産・広島県)
源平の戦い(げんぺいのたたかい)【1180年】
身勝手な行動をする平氏一族に不満をもった貴族や武士たちが全国に広がった。伊豆国(いずのくに・静岡県)に閉じ込められていた源頼朝(みなもとのよりとも・源義朝の子)は、平氏に反感をもつ武士とともに「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」を開始。鎌倉(かまくら・神奈川県)を拠点にして富士川(ふじがわ・静岡県)の平氏たちをけちらす。その後、武士による政権づくりを鎌倉でおこなった。一方、弁慶(べんけい)を家臣に持つ源義経(みなもとのよしつね・頼朝の弟)は、頼朝(よりとも・義経の兄)の戦いを知って平泉(ひらいずみ・岩手県)からかけつけた。平治の乱で敗れた源義朝(みなもとのよしとも・父)のかたき討ちとして、おさない頃から奥州(おうしゅう・東北地方)で武芸を磨き続けていた彼は、頼朝から源氏軍の指揮(しき)を任されて気持ちを高ぶらせる。ここから義経の快進撃が始まる。
勝敗:(〇)源義経(源氏)vs(✕)平清盛(平氏)
源義経(みなもとのよしつね・1159~1189年)
源義経(みなもとのよしつね)は、京で乱暴をはたらく源義仲(みなもとのよしなか)をまず討った。その後1184年、「一の谷の戦い(いちのたにのたたかい・兵庫県)」で鵯越(ひよどりごえ)とよばれる断崖(だんがい)をかけおりて平氏軍を倒した。屋島(やしま・香川県)では平氏たちを奇襲作戦でうちのめして勝利。1185年、平氏と源氏の最後の戦いとなった「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい・山口県)」では、源義経(みなもとのよしつね)は、船から船へと美しく舞い、平氏を滅ぼした。こうして義経は、「源平の戦い」に終わりを告げた。その後、朝廷から「官職(国家公務員みたいな位)」をもらった。しかし、それが気に食わなかった源頼朝(義経の兄)は義経を鎌倉に入れなかった。さらに義経は頼朝から追われる身となってしまった。義経は平泉(ひらいずみ・岩手県)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに身を隠した。秀衡の死後、泰衡(やすひら・秀衡の子)が義経の住む衣川の屋敷(ころもがわのやしき)に攻めこんだ。このとき義経は自ら命を絶ったとされるが、北(北海道)へ逃げたともされる。モンゴルにわたり「チンギス・ハン」に生まれ変わったとされる伝説もある。
源義経(山口県・壇ノ浦の戦い)
弁慶(べんけい・~1189年)
比叡山(ひえいざん)に入った弁慶(べんけい・鬼若)だったが、乱暴がすぎて追い出されてしまう。その後、弁慶は武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)と自ら名乗って乱暴を繰り返していた。五条大橋(ごじょうおおはし・京都)で弁慶は、「通りかかった武者をたおし、刀を千本うばう」と目標を決める。刀が最後の一本となったとき戦ったのが源義経(牛若丸)。戦いに敗れて義経(牛若丸)の家臣になり、源平の戦いでは義経を守るため、彼は全身に矢を受けて立ったまま絶命したとされる。しかし、記録が少ないので実在しなかった説もある。
「私の墓に頼朝の首をそなえろ」
病におかされていた平清盛は、「私の墓に頼朝の首をそなえろ」と言い残してさった。清盛を失った平氏たちは摂津国(せっつのくに・兵庫県)へにげた。源氏と平氏の最後の戦い「壇ノ浦の戦い」で決着がつくと、敗れた平氏一族は6歳の安徳天皇(あんとくてんのう・清盛の孫)とともに海へ身投げした。
まとめ
- 1051年…「前九年の役(ぜんくねんのえき)」
- 1083年…後三年の役(ごさんねんのえき)
- 1086年…院政(いんせい)
- 1156年…保元の乱(ほうげんのらん)
- 1159年…平治の乱(へいじのらん)
以上で平安時代後期【日本の歴史】まとめとなります。
ありがとうございました。
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