関ヶ原の戦い(天下分け目の戦い)【日本の歴史】

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関ヶ原の戦い(天下分け目の戦い)【日本の歴史】

安土桃山時代、日本の歴史を動かした天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」についてご紹介します。徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)を中心とした武将たちの活躍がよく分かります。

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関ヶ原の戦い(天下分け目の戦い)

豊臣秀吉の死後、徳川家康(とくがわいえやす)は天下取りに動いた。これに怒った石田三成は、徳川家康軍を倒すために兵を集めた。かつて三成は、病気で弱っている秀吉に代わって朝鮮出兵(中国)の指揮をしていた。一方、朝鮮出兵させられた武将たちは「俺たちは必死に戦っているのに、三成は日本から指揮している」と怒りをつのらせていた。石田三成(いしだみつなり)が得意としていたのは戦いではなく政治や軍の管理。命がけで現場で戦う武将たちと、武器・食料や兵の輸送・管理をする三成の間には気持ちの「くいちがい」が生まれていた。これを知っていた徳川家康は、朝鮮出兵させられていた加藤清正福島正則たちに近づいて味方に付けた。1600年7月、上杉景勝(うえすぎかげかつ・石田軍)が会津(あいづ・福島県)で反乱を起こした。家康はこれを聞いて大阪から会津へ向かった。これをチャンスとした三成は、西日本の武将たちに呼びかけ軍を集めた。会津に向かう途中にこれを知った家康は、直ぐに関東に引き返す。石田軍(西軍)宇喜多秀家(うきたひでいえ)や島津義弘(しまづよしひろ)、大谷吉継(おおたによしつぐ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)たちを中心として約8万の兵で徳川軍を待った。対する家康軍(東軍)福島正則(ふくしままさのり)や井伊直政(いいなおまさ)、黒田官兵衛(くろだかんべえ)を中心として西軍と向かい合った。1600年の安土桃山時代、全国の武将たちは東軍・西軍に分かれて「関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)」の火ぶたを切った。

関ヶ原古戦場(岐阜県)

天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い)の勝敗

午前9時ごろに始まった関ヶ原の戦いは石田軍(西軍)にやや有利に動いていた。井伊直政軍(西軍)の鉄砲隊がよく働いていた。不利な状況下の徳川家康だったが、実は切り札があった。戦いが始まる前、小早川秀秋(西軍)たちに石田三成を裏切るように約束させたのだ。しかし関ヶ原の戦いが始まっても動かない小早川秀秋軍(西軍)に、しびれを切らした家康は西軍へ前進。太陽がじりじりと昇る中、関ヶ原の戦いは激しくなっていく。すると突然、さっきまで動かなかった小早川秀秋軍(東軍)が大谷吉継軍(西軍)を攻撃して裏切りを始めた。その後、戦いが徳川軍に動いていくと、裏切り始める武将がつぎつぎに登場。西軍の武将には、宇佐田秀家軍(西軍)などが負け始めると逃げ出す者までいた。こうして西軍は大敗、東軍の徳川は勝利した。「天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い)」は、徳川家康の天下となった。

勝敗:(〇)徳川軍(東軍)【兵力7万】vs(✕)石田軍(西軍)【兵力8万】

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上杉景勝(うえすぎかげかつ・1555~1623年)

上杉景勝は上杉謙信のおいにあたる。感情をださない無口な武将だったとされている。織田信長死後、豊臣秀吉についた。その後、朝鮮出兵に参加して活躍した。朝鮮出兵帰国後は会津(福島県)を領土として秀吉から与えられた。関ヶ原の戦いの前、石田三成(西軍)に味方して東北地方にいる徳川軍・伊達政宗・最上義明連合軍直江兼続(なおえかねつぐ・景勝の家臣)と共に攻めた(長谷道場の戦い・1600年)。

石田三成(いしだみつなり・1560~1600年頃)

石田三成は敵をたおす力ではなく、敵と戦う準備の良さを秀吉にほめられていた。合戦をする際に必要な兵力や食料、戦場までの運搬法など、だれよりも正確に計算できた。その才能をかわれて朝鮮出兵では、病気の豊臣秀吉に代わって指揮を任されていた。しかし、豊臣秀吉の死後、朝鮮出兵からかえってきた武将と気持ちがくいちがい対立。そのせいで徳川家康との関ヶ原の戦いでは、多くの武将が東軍に味方した。午前はやや優勢だった西軍も、武将の裏切りや仲のもつれから東軍に敗れてしまう。

石田三成陣跡(岐阜県)

大谷吉継(おおたによしつぐ・1599~1600年)

大谷吉継は豊臣秀吉の家臣で、石田三成と年齢も同じで昔からの親友。秀吉の隣の部屋に居たことから政治の実権を強くにぎっていた人物とされる。治らない病いにかかっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)は、茶会で回し飲みする茶の中に、あやまって鼻水を落としてしまう。他の大名は口をつけなかったが、石田三成はその茶を全部飲みほした。彼は「もう一滴」と冗談を言うほどの優しさを持っていた。吉継は石田の友情に感謝、西軍に最後まで尽くした。ちなみに吉継は「石田三成は人を集める器ではない」と本人に直接述べて、徳川家康軍を倒すことを止めるように説得した。しかし石田三成は関ヶ原の戦いの準備をした。こうして負け戦(まけいくさ)と分かっていながら吉継は親友である石田三成のため味方に付いた。関ヶ原の戦いで兵を集めるために、吉継は西軍の総大将を石田三成ではなく、「三矢の訓え」で知られる毛利元就の孫・毛利輝元(もうりてるもと・中国地方の大名)にしたとされる。毛利輝元は名前をかしただけで、合戦には参加していない。

大谷吉継陣跡(岐阜県)

島津義弘(しまづよしひろ・1535~1619年)

島津義弘は南九州の戦国大名・島津隆久の次男。兄弟で薩摩(さつま・鹿児島県)や大隅(おおすみ・鹿児島県)、日向(ひゅうが・宮崎県)を支配した。特に島津義弘はかなり強く、手柄は数えきれないほどあげたとされる。豊臣秀吉が九州の領地に攻めてきたとき、先頭に立って戦った。戦いの途中で、兄・義久は降参を考えたが、義弘は最期まで戦いたいと述べた。その後、兄弟で話し合ってようやく降伏。関ヶ原の戦いでは石田軍(西軍)についたが、朝鮮出兵の件で石田三成と対立していたので西軍が不利になっても動かなかった。しかし西軍の負けが決まったとき、突然、島津義弘軍は徳川軍(東軍)に向かって一直線に切り込んだ。そのまま島津義弘は、無事に薩摩国に帰った。徳川家康は義弘を恐れて島津家の領地を減らさなかった。

島津義弘像(鹿児島県・伊集院駅前)

加藤清正(かとうきよまさ・1562~1611年)

加藤清正と豊臣秀吉の母はいとこで、生まれたふるさとも同じだった。そのため、清正は古くから秀吉につかえていた。秀吉の死後、朝鮮出兵からもどった加藤清正は石田三成と対立。関ヶ原の戦いでは徳川家康の味方についた。1607年、肥後(ひご・熊本県)に熊本城を築いた。商業を盛んにしたり、洪水の被害を防ぐ工事をしたりして庶民につくした。ちなみに朝鮮出兵したとき、清正の陣地にトラが飛び込み、家臣の命がとられ激怒。怒った清正は逃げたトラをわざわざ探しに行って、槍で突いて仇をとったとされる。

熊本城(熊本県)

井伊直政(いいなおまさ・1561~1602年)

織田信長・徳川連合軍が武田軍を滅ぼした長篠の戦いで活躍。家康は井伊直政に、武田騎馬隊から一番つよい部隊を軍に入れるように命令。直政が連れて来たその部隊は、全体が赤色の甲冑(かっちゅう)で統一されていた。それ以降、直政は彼らを率いて勇ましく攻め込んだ。そのため、井伊直政は「井伊の赤鬼(いいのあかおに)」と呼ばれた。関ヶ原の戦いでは、徳川家康・東軍の先鋒(せんぽう・最初に攻め込む部隊)は福島正則に決まっていた。しかし手柄をたてたい東軍の直政は、勝手に先鋒をとって戦いの火ぶたを切る。家康軍が勝利したので怒られることはなかったが、戦いのケガがもとで病死した。

井伊直政像(滋賀県・JR彦根駅前)

福島正則(ふくしままさのり・1561~1624年)

福島正則の母は豊臣秀吉のおばにあたる。秀吉に古くからつかえて活躍。秀吉の死後、朝鮮出兵の件で石田三成とケンカして徳川軍(東軍)を味方する。東軍に勝利を導いたとして広島藩50万石(まんごく)をもらった。

まとめ

関ヶ原の戦い(1600年)・登場人物(東軍・西軍)

徳川家康(東軍)

  1. 加藤清正
  2. 福島正則
  3. 井伊直政

石田三成(西軍)

  1. 大谷吉継
  2. 島津義弘
  3. 宇喜多秀家

小早川秀秋(東軍・西軍)

※ほかにも関ヶ原の戦いで活躍した戦国武将は多く存在します。

以上で関ヶ原の戦い(天下分け目の戦い)【日本の歴史】まとめとなります。

ありがとうございました。

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