安土桃山時代・豊臣秀吉【日本の歴史】

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安土桃山時代・豊臣秀吉【日本の歴史】

安土桃山時代・豊臣秀吉の日本の歴史についてご紹介します。中国恩返しや大阪城、天下統一や朝鮮出兵(文禄・慶弔の役)まで、秀吉の生涯が分かります。

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安土桃山時代

安土桃山時代、本能寺の変で織田信長をたおした明智光秀が、天下統一に大きく前進した。1582年、備中国(びっちゅうのくに・岡山県)の毛利氏(もうりし)と戦っていた豊臣秀吉軍は、備中松山城を攻めていた。秀吉は織田信長の死の知らせを聞くと、ついさっきまで敵だった毛利と仲直り。全速力で京都へと引き返した。1週間でおよそ200キロメートル戻った秀吉軍は、山崎の戦い(やまざきのたたかい・京都府)で明智光秀を倒して信長の仇(かたき)をうった。この行動を中国恩返し(ちゅうごくおんがえし)と呼び、信長の後継ぎとなる行動となった。

明智光秀像(京都府亀岡市)

黒田官兵衛(くろだかんべえ・1546~1604年)

黒田官兵衛は、豊臣秀吉の作戦を考える軍師。備中高松城を攻めるとき、城のまわりを水びだしにして、毛利軍が援軍を呼ぶことを阻止した。秀吉に毛利と仲を戻して京都に引き返すきっかけをつくった人物。「天下を奪われるのではないか」と秀吉に警戒されるほど優秀な軍師だったとされる。その後、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で徳川家康の東軍として九州で戦う。

賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)【1583年】

織田信長の死後、後継者争いが琵琶湖(びわこ)のほとりにの賤ケ岳(しずがたけ・滋賀県)で起きた。誰よりも先に明智光秀を倒した豊臣秀吉と、鬼柴田(おにしばた)と呼ばれるほど強かった信長の家臣・柴田勝家(しばたかついえ)の戦いだ。勝家は上杉氏と戦っていたので、直ぐに京都へ戻ることができず、秀吉におくれをとっていた。1583年、後継者争いで賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)が起きた。激しい戦いの末、加藤清正や福島正則をはじめとする7人の武将「七本槍(しちほんやり)」の活躍で豊臣軍の勝利となった。

柴田勝家(しばたかついえ・1522~1583年)

織田信長の死の知らせを聞いた柴田勝家だったが、北陸地方で上杉景勝(うえすぎかつかげ・上杉謙信のおい)軍と戦っていたので直ぐに戻れなかった。その代わりこの戦いでは、勝利をおさめている。賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れた勝家は、戦国一の美女と言われた妻・お市の方(おいちのかた・信長の妹)と北ノ庄城(きたのしょうじょう・福井県)で共に命を絶った。

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)【1584年】

賤ケ岳の戦いで柴田勝家に勝利した豊臣秀吉は、織田信長の後継者となった。これに不満をもった織田信勝(おだのぶかつ・信長の次男)は、徳川家康に「共に戦って秀吉を倒してほしい」とお願いした。こうして両軍は尾張国(おわりのくに・愛知県)で衝突。その後、羽黒の戦い(はぐろのたたかい・愛知県)で家康軍が勝利した。一方の豊臣秀吉は、次に別働隊をつくって三河(みかわ・徳川の領地)を攻めようとした。よく見渡せる山中に本陣を構えていた家康は、これに気付いて直ぐに攻撃。秀吉の別動隊を鉄砲隊で倒した(小牧・長久手の戦い)。しかし秀吉は、ほかにも別動隊をつくって信勝の領地・伊勢国(いせのくに・三重県)を攻めた。すると信勝と秀吉は、家康の知らないうちに仲直りをしてしまった。こうして家康も秀吉と和解した。

勝敗:(〇)徳川・織田軍【兵力約3万5千】vs(✕)豊臣軍【兵力7万】

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大阪城天守・本丸の完成【1585年】

1583年、秀吉の軍師・黒田官兵衛(くろだかんべい)が設計を担当。織田信長の天守・安土城(あづちじょう・滋賀県)をまねて大阪城(おおさかじょう・大阪市)をつくり始めた。1585年に仕上がった5層の天守は、黒の板に黄金で飾られていた。天守の中には財宝が納められていて、最上階には「黄金の茶屋」があったとされている。豊臣秀吉の大阪城は、完成まで15年もかかった。ちなみに現在の大阪城天守は、1931年に再建されたもの。

大阪城(大阪市)

千利休(せんのりきゅう・1522~1591年)

千利休は、黄金の茶屋で豊臣秀吉と共に茶をかわした。彼は贅沢をせずつつましい茶道「わび茶」を完成させた。しかし、豪華な茶室や道具を使うことを好む秀吉は、千利休のやり方が許せなくなった。1591年、秀吉を怒らせて切腹となった。

聚楽第(じゅらくだい)の完成【1587年】

小牧・長久手の戦い後、豊臣秀吉は更に力を付けて、徳川家康を従えることになった。天下統一を考える秀吉は、朝廷を味方につけた。こうして豊臣秀吉は、関白(大人の天皇の代わりに政治をする人)と太政大臣(朝廷最高の職)の座を与えられた。1587年、豪華な屋敷・聚楽第(じゅらくだい・京都)ができると大阪城から移り住んで政治をおこなった。ほかにも御土居(おどい・京都を守る土塁・堀)をつくった。翌年には、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を招き、徳川家康などの全国の大名を集めて忠誠をちかわせた。

伊達政宗の降伏【1590年】

豊臣秀吉は九州に攻め込んで、薩摩国(さつまのくに・鹿児島県)の島津氏(しまづし)を降伏させた。こうして秀吉に従っていない残りの大名は、北条氏(ほうじょうし・関東地方)と伊達政宗(だてまさむね・東北地方)のみとなった。秀吉は小田原城(おだわらじょう・神奈川県)を20万の大軍で囲んで北条氏を倒すことを宣言した。この戦いに参加するように、秀吉に命令された政宗だったが、ぎりぎりまで迷って到着が遅れてしまう。「遅い」と怒る秀吉に、白装束(しろしょうぞく・死人に着せる和服)を着て登場した伊達政宗。その覚悟を気に入った秀吉は、「もう少し遅かったら、ここが飛んでおったな」と正宗の首をなぞって許した。

伊達政宗騎馬像(宮城県)

豊臣秀吉の天下統一【1590年】

20万の兵と伊達政宗を従えて小田原城を囲った豊臣秀吉だったが、小田原城はかつての武田信玄や上杉謙信さえ落とせなかった北条氏の本拠地。秀吉は無理に攻めこむと損害が大きいと考えた。そう考えた秀吉は、小田原城の西にひそかに城を3ヶ月かけて作り始めた。一方の北条氏は、長期戦に持ち込もうと食料を蓄えて小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)に備えていた。1590年、秀吉はが完成すると、周りの木々を一気に切り落とした。北条氏らの目には、まるで「一夜城(いちやじょう・一夜にしてできた城)」に見えた。こうして戦う気力をなくした北条氏は降伏。豊臣秀吉は、ついに「天下統一(てんかとういつ)」を成し遂げた。

豊臣秀吉像(大阪城・豊国神社)

文禄の役(ぶんろくのえき)【1592~1596年】

天下統一を果たした秀吉は、明(みん・中国)も征服しようと考えた。肥前国(ひぜんのくに・佐賀県)に名護屋城を建てると、15万人を朝鮮出兵させた。1592年に始まった文禄の役(ぶんろくのえき)では、小西行長(こにしゆきなが)が釜山(ぶさん)を占領、加藤清正(かとうきよまさ)たちの活躍で漢城(かんじょう・朝鮮の首都)を攻め落とすことに成功した。翌年、浮田秀家(うきたひでいえ)らは、碧蹄館(へきていかん)で明軍を倒した。次々と攻め込んだ日本軍は有利に駒をすすめたが、手ごわい朝鮮水軍によってだんだんと不利になり、一旦引き上げた。

名護屋城跡(佐賀県)

慶弔の役(けいちょうのえき)【1597~1598年】

1597年、秀吉は14万の兵をふたたび送った。翌年の1598年、島津義弘(しまづよしひろ)が明・朝鮮の連合軍を泗川(しせん)で撃退した。しかし、露粱(ろりょう)では李舜臣(りしゅんしん・朝鮮の武将)率いる連合軍に日本軍は大敗。一方の加藤清正軍は、蔚山城(うるさんじょう)を作っていたところ、約7万の明・朝鮮軍に囲まれてしまう(蔚山城の戦い)。城内には食料や水がなく苦しい戦いとなったが、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の軍勢によってぎりぎり保っている状況だった。一方の秀吉は、醍醐寺(だいごじ・京都)に700本の桜を植えて、家来とその家族(約1300人)と共に花見をしていた。秀吉の病死後、日本軍は明(中国)から引き上げて、慶弔の役がようやく終わった。

上田合戦(うえだがっせん)【1600年】

豊臣秀吉の死の直前、家臣・前田利家(まえだとしいえ)や徳川家康、毛利輝元(もうりてるもと)たちを集めた。秀吉は豊臣秀頼(とよとみひでより・秀吉の息子)の面倒をみるようにお願いしてこの世を去った。しかし豊臣秀吉の死後、家臣だった徳川家康は、天下を取ろうと動きだした。これを許せないと思った豊臣の家臣・石田三成(いしだみつなり・秀吉の家臣)は、徳川家康を倒すために動き出した。1600年、両軍は関ヶ原(せきがはら・岐阜県)に向かっていた。徳川軍・徳川秀忠(とくがわひでただ・家康の子)は、信濃国(しなののくに・長野県)を通って関ヶ原にむかう途中、豊臣の家臣・真田昌幸(さなだまさゆき)の上田城(うえだじょう)を経由。約3万8千の兵を連れた秀忠は、約3千5百の昌幸軍に降伏するように言った。これに真田軍は従わず「上田合戦(うえだがっせん)」となった。真田軍はわざと負けたふりをして、上田城内に徳川軍を連れ込み、つぎつぎに鉄砲隊で返り討ちにした。川をわたって攻めこむものは、上流でせき止めておいた堤防を壊して徳川軍を水におぼれされた。こうして真田正幸は天才的な作戦で勝利した。一方の徳川秀忠軍は大敗しただけでなく、肝心の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

勝敗(〇)真田正幸軍【兵力3千5百】vs(✕)徳川秀忠軍【兵力3万8千】

まとめ

  • 1582年…中国地方から京都に戻って明智光秀を倒した「中国恩返し」が起こる。
  • 1583年…豊臣秀吉と柴田勝家の後継者争い「賤ケ岳の戦い」が起こる。
  • 1584年…豊臣軍と織田信勝・徳川軍の後継者争い「小牧・長久手の戦い」が起こる。
  • 1585年…織田信長の天守・安土城をまねた大阪城天守・本丸が完成する。
  • 1587年…豪華な屋敷・聚楽第(じゅらくだい・京都)ができる。
  • 1590年…「小田原城の戦い」に参加命令された伊達政宗が遅れて降伏した。
  • 1590年…豊臣秀吉が一夜城を築き、北条氏を降伏させて「天下統一」達成。
  • 1592~1596年…明(みん)に15万人朝鮮出兵させて「文禄の役」を始める。
  • 1597~1598年…再び14万を朝鮮出兵。秀吉の病死後、日本軍はようやく撤退。

以上で安土桃山時代・豊臣秀吉【日本の歴史】まとめとなります。

ありがとうございました。

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