江戸時代・江戸幕府の始まり【日本の歴史】

日本の歴史
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江戸時代・江戸幕府の始まり【日本の歴史】

江戸時代・江戸幕府の始まり【日本の歴史】についてご紹介します。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康(東軍)が朝廷から征夷大将軍に任命されて、江戸に幕府を開いた「江戸幕府」、真田幸村(豊臣軍)と大阪城で戦った「大阪冬の陣・大阪夏の陣」がよく分かります。ほかにも参勤交代を学ぶことができます。

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江戸時代・江戸幕府の始まり

1603年、関ヶ原の戦いで勝った徳川家康(とくがわいえやす)は朝廷から征夷大将軍に任命された後、江戸(えど・東京都)に「江戸幕府(えどばくふ)」を開いて、全国の大名(1万石以上の領地を持つ武士)たちに江戸城や海を埋めて町を大きくする工事を命令した。その後、徳川家の家臣の家を作らせて、城を囲むように全国の大名たちを屋敷に住まわせた。こうして江戸幕府が置かれた江戸(東京都)は、やがて日本の中心都市となった。江戸時代・江戸幕府の始まりである。

江戸城跡(東京都)

江戸幕府の役人

江戸幕府の役人は、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕える譜代大名(ふだいみょう)や徳川家の家臣の中から選ばれた。征夷大将軍に仕える幕府最高職は合わせて次の5職で、譜代大名から選ばれた。

  1. 大老(たいろう・幕府の最高職)
  2. 老中(ろうじゅう・全政治の実権を握る最高職)
  3. 側用人(そばようにん・将軍の側に仕えて将軍の命令を老中に伝える職)
  4. 若年寄(わかどしより・幕府の役に監視して老中を手伝う職)
  5. 寺社奉行(じしゃぶぎょう・寺や神社を管理する職)
  • 譜代大名(ふだいだいみょう)…関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕える大名。
  • 外様大名(とざまだいみょう)…関ヶ原の戦い以後、徳川家に仕えた大名。

老中の下に仕える幕府の役人は次の3つで、徳川家の家臣から選ばれた。

  1. 大目付(おおめづけ)…老中のもとで大名を監視する役人。
  2. 町奉行(まちぶぎょう)…江戸の町警察や裁判をする役人。
  3. 勘定奉行(かんじょうぶぎょう)…幕府の領地を支配して、税を集める役人。

徳川家康(とくがわいえやす・1542~1616年)

徳川家康は三河(みかわ・愛知県)の岡崎城(おかざきじょう・松平弘忠の子)で生まれた。家康が少年の頃、今川氏(東軍)と織田軍(西軍)で分かれていた。家康の父・松平は、今川氏(東軍)に仕えるしるしとして、6歳の家康を人質として差し出す。その後、織田軍に人質として奪われて過ごすが、織田氏と今川氏の争いで再び8歳の頃、今川氏の人質として過ごす。それから11年間今川家の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)から日本・中国の歴史を学ぶ。1560年、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を倒して、ようやく家康は自由の身となる。しかし、家康は力不足だったため、半ば強引に信長から同盟を結ばされた(実際は殆ど家臣)。織田信長の死後、豊臣秀吉の家臣として仕える。豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康(東軍)は、石田三成(西軍)に勝利する。1603年、江戸に幕府を開いた。それから2年後、征夷大将軍の位を徳川秀忠(とくがわひでただ・家康の子)にゆずって、政治の実権を握り続けた。

岡崎城(愛知県・岡崎公園)

巌流島の決闘(がんりゅうじまのたたかい)【1612年】

江戸時代に入ってから平和になり、武将が合戦で手柄をあげて出世する時代は終わった。そこで武芸で有名になって出世しようとした宮本武蔵(みやもとむさし)は、旅をしながら試合に明け暮れていた。1612年、武蔵が当時29歳の頃、巌流島(がんりゅうじま・山口県)で佐々木小次郎(ささきこじろう)と決闘した。小次郎の冷静さをうばって怒らせるためにわざと試合に2時間も遅れた武蔵。「遅い!」と怒った小次郎は刀の(さや・刀をいれる筒)を投げ捨てた。「鞘を捨てるということは、二度と刀をおさめられないということ。小次郎敗れたり!」と叫びながら武蔵は小次郎に木刀を振り下ろして勝利した。

巌流島の戦い像(小倉城庭園・山口県)

大阪冬の陣(おおさかふゆのじん)【1614年】

江戸時代(1614年)、江戸幕府を開いた徳川家康は、豊臣秀頼(とよとみひでより・秀吉の子)を家臣にしようとしたが淀殿(よどどの・秀頼の母)に断られた。これに怒った家康は、約20万人の徳川軍で豊臣氏の大阪城を囲んだ。一方の豊臣軍は、約10万の「浪人(ろうにん・主人がいない武士)」で大阪城の守りを固めた。真田幸村(さなだゆきむら・豊臣軍)は、大阪城の弱点・南側を攻める徳川軍を「真田丸(さなだまる・城)」をつくって攻撃。徳川軍の前田利常(まえだとしつね)軍や井伊直孝(いいなおたか)軍におおきな被害を与えた。「大軍を送っても大阪城は落とせない」と分かった家康は、大阪城めがけて毎日大砲を発射。撃った大砲は大阪城に届いて被害を与えた。こわくなった淀殿(よどどの・豊臣軍)は、家康と仲直りして大阪冬の陣は終わった。

勝敗:(引分)徳川家康軍【兵力20万】vs豊臣秀頼軍【兵力10万】

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大阪夏の陣(おおさかなつのじん)【1615年】

大阪夏の陣で淀殿(豊臣軍)が家康(徳川軍)と仲直りをしたが、仲直りの条件として「内堀・外堀(城を守る水路)」や「真田丸」を壊して大阪城の防御力を弱くした。それから翌年の1615年・夏、初めから支配するつもりだった家康軍は、約15万の兵を連れて大阪城を包囲。一方の豊臣軍は、真田幸村ら浪人・約5万で立ち向かった。得意とする戦い方ができないと知った幸村(豊臣軍)は、家康を倒すために捨て身で突撃。家康は真田幸村の凄まじい攻撃力に切腹を覚悟したが、あと一歩で徳川軍が抑えて幸村を倒した。その後、豊臣秀頼と淀殿(秀頼の母)は、燃える大阪城で命を絶った。こうして大阪夏の陣は、徳川家康の勝利となった。

勝敗:(〇)徳川家康軍【兵力15万】vs(✕)豊臣秀頼軍【兵力5万】

淀殿(よどどの・1567~1615年)

淀殿は、お市の方(おいちのかた・織田信長の妹)の娘。豊臣秀吉と結婚後、秀頼を生んだ。

豊臣秀頼(とよとみひでより・1593~1615年)

豊臣秀頼は、豊臣秀吉と淀殿の子。大阪夏の陣で徳川家康軍に敗れて命を絶つ。

真田幸村(さなだゆきむら・1567~1615年)

真田幸村は、真田昌幸(さなだまさゆき・幸村の父)の次男。1600年の上田合戦で、徳川秀忠(とくがわひでただ・家康の子)軍を破る。関ヶ原の戦いで敗れた石田三成(いしだみつなり・西軍)に味方したため、九度山(くどやま・和歌山県)に閉じ込められる。大阪冬の陣で犠牲になった徳川軍の兵の80%は、真田丸を攻めてきたときに出たと言われる。

真田幸村像(三光神社・大阪市)

参勤交代(さんきんこうたい)【1635年】

江戸幕府の徳川家光(とくがわいえみつ・3代征夷大将軍)は、大名(藩主)の妻や子どもを人質として江戸に住まわせ、1年おきに征夷大将軍を守るために江戸に訪れることを命令した。これを「参勤交代(さんきんこうたい)」という。各地の大名(藩主)たちは藩(はん・領地)と江戸を往復するときに、家臣と共に大名行列(だいみょうぎょうれつ)を組んだ。力のある藩主(はんしゅ・大名)ほど連れていく人数が多くなるので費用がかかった。一番大きいところは加賀藩(かがはん・石川県)で、約4000人と言われている。こうして各藩主は幕府に対抗することができなくなった。

参勤交代のシステム

参勤して藩主(大名)たちを1年間(関東の藩主は半年間)江戸に住まわせて、妻や子どもは江戸に常に住まわせる。その後、藩主(大名)たちを1年間(関東の藩主は半年間)、藩(領土)に交代させて住まわせる。

まとめ

  • 1603年…徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開く(江戸幕府)。
  • 1612年…宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘する。
  • 1614年…大阪城で徳川軍と豊臣軍の「大阪冬の陣」が起こる。
  • 1615年…大阪城で徳川軍が豊臣軍に「大阪冬の陣」を起こす。
  • 1635年…3代将軍・徳川家光が参勤交代をするように各藩主たちに命令する。

以上で江戸時代・江戸幕府の始まり【日本の歴史】をまとめとします。

ありがとうございました。

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