平安時代初期・中期【日本の歴史】

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平安時代初期・中期【日本の歴史】

平安時代の日本の歴史についてご紹介します。平安時代の初期は藤原氏の力が強くなり、中期には、力がだんだんと弱くなっていく様子がよく分かります。いよいよ「武士(ぶし)」と呼ばれる人たちも登場です。

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平安京(へいあんきょう)【710年】

奈良時代まで、朝廷により仏教政治が行われたが上手くいかなかった。天皇中心の政治に戻すために、桓武天皇(かんむてんのう・737~806年)は、平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう・京都府)に都をうつす。785年、桓武天皇から長岡京の建設を任された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が何者かによって暗殺された。皿良親王(さらしんのう・桓武天皇の弟)が犯人だとされたが、彼は最期まで無実を主張したまま亡くなってしまう。それ以来、相次ぐ伝染病や天災(洪水など)にみまわれた。藤原種継のたたりを恐れた桓武天皇は、710年、平安京(へいあんきょう・京都府)にあえなく都を移した。その後1000年以上、平安京はつづく。

最澄(さいちょう・767~822)

仏教と天皇中心の政治をわけるため、奈良の寺院が平安京に立ち入ることを固く禁じた。桓武天皇(かんむてんのう)は、その代わりとして「最澄(さいちょう・767~822年)」の新しい仏教「天台宗(てんだいしゅう)」をとりいれた。最澄は、比叡山(ひえいざん・滋賀県)で修行をした後、遣唐使(けんとうし)として唐(とう・中国)にいき、そこで最新の仏教を学んだ。日本に帰国後、比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を建てて、天台宗を開く。政治に関わらず苦しむ人を助けようとする姿勢が、桓武天皇をはじめ多くの人に敬われた。

空海(くうかい・774~835年)

空海(くうかい)は四国できびしい修行を終えた後、最澄とともに遣唐使として唐(とう・中国)にわたる。そこで「密教(みっきょう・口伝でつたえる秘密の仏教)」を学び、「真言宗(しんごんしゅう)」を開いた。高野山(こうやざん・和歌山県)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建てた後、全国を歩いて旅した。そのため、全国各地に空海にゆかりのある寺がある。「四国八十八ヵ所(しこくはちじゅうはちかしょ)」巡りをするお遍路(へんろ)や、護摩(ごま・熱い火の前でお経を読むこと)など、日本の仏教の土台をつくったされる。ほかにも彼は、唐で密教だけでなく土木技術(どぼくぎじゅつ)を学んだ。その知識を活かして、旅の途中、香川県の満濃池(まんのういけ)や日本各地に温泉やため池を作ったとも言われている。空海は62歳で亡くなったとされているが、金剛峯寺(こんごうぶじ・和歌山県)で今なお生きていると考えられている。空海がいるとされる地下の部屋に、毎日2回の食事と新しい服も毎年届けられているそうだ。

高野山 金剛峯寺(和歌山県)

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ・758~811)

801年、東北地方に朝廷に従わない蝦夷(えみし)とよばれる人々がいた。桓武天皇の命により、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん・軍の将軍)として任された。東北地方を支配する蝦夷の反乱をしずめて、坂上田村麻呂はアルテイ(蝦夷の大将)を降伏させる。坂上田村麻呂は、優しく強い性格だった。敵だった蝦夷のアルテイの命を助けることを訴えた彼だが、アルテイは処刑された。その翌年、多賀城(たがじょう)の北に胆沢城(いさわじょう)をつくった。

摂関政治(せっかんせいじ)【866年】

平安時代の初めは、桓武天皇(かんむてんのう)が政治をする。嵯峨天皇(さがてんのう)のとき、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が天皇の秘書になる。藤原良房(ふじわらのよしふさ・冬嗣の子)」は、嵯峨天皇(さがてんのう)の娘と結婚。生まれた娘を、文徳天皇(もんとくてんのう)と結婚させる。次に良房は、その間に生まれた子を清和天皇(せいわてんのう・当時9歳)にさせる。こうして良房(よしふさ)は皇族以外で初めて摂政(おさない天皇の代わりに政治をする人)として政治をすることになった。一方、藤原基経(ふじわらのもとつね・良房の養子)は、摂政になっただけでなく、孝徳天皇(こうとくてんのう・55歳)の「関白(かんぱく・成人した天皇の代わりに政治をする人)」として政治をおこなった。これ以降、藤原氏が摂政と関白を独占、これが「摂関政治(せっかんせいじ)」となる。ちなみに、藤原氏は大化の改新で登場した中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子孫である。

中大兄皇子(左)とともに蘇我入鹿(中央)を討ち取る中臣鎌足(右)

公卿会議(くぎょうかいぎ)

右大臣(うだいじん)・左大臣(さだいじん)・太政大臣(だいじょうだいじん)・大納言(だいなごん)と呼ばれる人たちが、国の政策を決める話し合いをする(公卿会議)。その後、話し合いでまとまった政策を天皇や摂政、関白に伝えて最終的な決定がされる。

応天門の変(おうてんもんのへん)【866年】

藤原良房は、平安京にある応天門(おうてんもん)が火事になったとき、ライバルだった伴善男(とものよしお)を犯人にしたてあげて都から追放した。

遣唐使の中止【894年】

宇多天皇(うだてんのう)が、菅原道真(すがわらのみちざね)を遣唐使に任命。しかし、890年ごろから、唐(とう・中国)の力はおとろえはじめる。唐は2年後には滅ぶと予想した道真(みちざね)は、日本は航海技術も未発達な上に、滅びる国へ危険をおかしてまで行く必要はないと主張。おさないころから頭がよく、33歳で朝廷内の学校教師を担当していた道真。その能力を認めていた宇多天皇は、彼の意見を聞き入れて遣唐使を中止とした。

菅原道真(すがわらのみちざね・学問の神様)

頭がいい道真は、順調に出世をかさねた。そんな彼を藤原氏はよく思っていなかった。901年、藤原氏は道真を妬み、無実の罪をつくる。こうして道真は、大宰府(だざいふ・福岡県)に追放された。道真の死後、藤原氏や皇族が次々に病死。さらには、雷が皇居(天皇が住むところ)に落ちるなど、道真のたたりとして恐れられた。当時、菅原道真(すがわらのみちざね)は天神として恐れられていたが、彼は5歳で和歌(わか)を、11歳で漢詩(漢字の詩)をつくった秀才だったため、いつしか「学問の神様」としてあがめられるようになった。ちなみに、各全国の「天満宮(てんまんぐう)」がつく神社は、道真を祀っていると認識されている。

太宰府天満宮(福岡県)

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)【935年】

平安時代の中期、各地で自分の土地を守ろうとする農民「武士(ぶし)」が現れる。下総国(しもうさのくに・茨城県)に、平安時代の初期で登場した桓武天皇(かんむてんのう・)の子孫「平将門(たいらのまさかど・~940年)」がいた。935年、彼も力をもった武士の一人だったが、彼のおじと領地をめぐる争いを起こした。その後、朝廷の国府(こくふ・国の役所)を八か国を制圧する。やがて大きな戦いとなるが、朝廷軍の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)との戦いの末、平将門は敗れた。しかし、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)は、武士の力を朝廷に知らしめるものとなった。

平将門(たいらのまさかど・940年)

下総国(しもうさのくに)を始まりとして関東地方の八か国を支配し、朝廷に反乱を起こした武士。平将門(たいらのまさかど)は、自らを「新王(しんのう)」と名乗って、朝廷を無視した政治をおこなった。

藤原住友(ふじわらのすみとも・~941年)

朝廷の役人であった藤原住友(ふじわらのみすとも)は「平将門の乱」とほぼ同時期に、瀬戸内海(せとないかい)で反乱を起こした人物。大宰府(だざいふ・福岡県)や淡路国(あわじのくに・兵庫県)を支配したが、平将門と同じく朝廷に敗れた。

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枕草子(まくらのそうし)の完成【1001年ごろ】

遣唐使がなくなった日本では、ひらがなや日本独自の文化が発展。一条天皇の皇后(こうごう・天皇の妻)・定子(ていし)の女房(家庭教師)だった「清少納言(せいしょうなごん・966~1025年ごろ)が著者。日本で初めとなる随筆(ずいひつ・エッセイ)で、朝廷内のできごとや季節の変化がするどく書かれた文学作品「枕草子(まくらのそうし)」である。

源氏物語(げんじものがたり)の完成【1008年ごろ】

紫式部(むらさきしきぶ・973~1014年ごろ)」は、清少納言と同じく女房として一条天皇の皇后・彰子(しょうし)に仕えた人物で、長編恋愛小説「源氏物語(げんじものがたり)」の著者。10年あまりかけてできた文学作品で、皇居を舞台とした光源氏(ひかるげんじ・美男子)のいくつもの恋愛がえがかれている。

紫式部(京都宇治市)

陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)

平安時代の朝廷内に、陰陽寮(おんみょうりょう)と呼ばれる「安倍晴明(あべのせいめい・921~1005年)」たちがつとめる役所があった。天気や時間、星の観測、式神を従えて天皇や貴族の病を治療したり、安倍晴明は優れた陰陽師として知られていた。なかでも藤原道長(ふじわらのみちなが)からよく信頼され、彼の日記には清明の優れた能力について書かれている。

藤原道長(ふじわらのみちなが)が摂政となる【1016年】

摂関政治で権力をにぎった藤原氏だが、その中で最も力をもったのが「藤原道長(ふじわらのみちなが)」だった。彼は66代・一条天皇(いちじょうてんのう)と彰子(しょうこ・長女)を結婚させ、次女・妍子(けんし)を67代・三条天皇(さんじょうてんのう)と、三女・威子(いし)を68代・後一条天皇(ごいちじょうてんのう・一条天皇と彰子の子)を結婚させた。こうして藤原道長は天皇と血縁関係をつくり、1016年には摂政となり、翌年には太政大臣(だいじょうだいじん)となった(約30年間)。その後、道長は頼道(よりみち・道長の長男)に摂政を譲りわたし、頼道は50年にかけて関白の地位についた。しかし頼道以降、男の子が生まれなかったので、長く続いた藤原氏の力は弱くなっていく。

「この世をば、我が世とぞ思う、望月の、欠けたることも、なしと思えば」

藤原道長が、後一条天皇と威子(いし・道長の三女)の結婚祝いの宴会でよんだ「望月の歌(もちづきのうた)」だ。彼は「この世をば、我が世とぞ思う、望月の、欠けたることも、なしと思えば(欠けたところがない満月のように、この世は私のためにあると思う)」と歌をよんだ。

まとめ

  • 710年…桓武天皇(かんむてんのう)が平安京(へいあんきょう)に都をうつす。
  • 866年…藤原氏の摂関政治(せっかんせいじ)が始まる。
  • 894年…菅原道真(すがわらのみちざね)が宇多天皇に遣唐使の中止を主張する。
  • 935年…平将門の乱(たいらのまさかどのらん)。武士が登場する。
  • 1001年頃…著者・清少納言(せいしょうなごん)が枕草子(まくらのそうし)を完成。
  • 1008年頃…著者・紫式部(むらさきしきぶ)が源氏物語(げんじものがたり)を完成。
  • 1016年…藤原道長(ふじわらのみちなが)が摂政となる。藤原氏が約80年政治を中心となってうごかす。

以上で平安時代の初期・中期【日本の歴史】まとめとなります。

ありがとうございました。

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