縄文・弥生・古墳時代【日本の歴史】

日本の歴史
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縄文・弥生・古墳時代【日本の歴史】

縄文時代から弥生時代、そして古墳時代に起きた日本の歴史について、簡単に紹介していきます。

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縄文時代【紀元前1万年ごろ】

縄文時代の人々は、シカやイノシシなどの狩りや魚の漁、木の実や貝を食べた。食料の保存や、にたき目的として縄文土器を使った。女性の姿をした土偶をつくって安産や病気の回復を願ったとされる。貝塚と呼ばれるゴミ捨て場には、貝がらや動物の骨が見つかっている。川や海の近くに竪穴住居(地に柱を立て、屋根や壁を草や土でつくった家)を建てた。青森県の三内丸山遺跡では、2階建ての竪穴住居が残る。

三内丸山遺跡(青森県)

弥生時代【紀元前500年】

弥生時代は、中国大陸や朝鮮半島から日本に移り住んできた人々によって米作りが伝わった。九州の北部から日本全国に広まっていく。水田をつくって田植えをし、石包丁(石のナイフ)を使って稲の穂を収穫した。米は栄養があり、長い期間たくわえることもできたので、縄文時代よりも安定した生活をすることができた。収穫した米は高床倉庫に保存され、ネズミや湿気から守った。一方、米作りは人々が協力しなければスムーズに仕事が進まなかった。そのため、仕事を指示するリーダーが生まれ、彼らを中心とした「むら」が各地で出来始める。弥生時代では、縄文土器と比べて薄くて模様のすくない弥生土器が使われた。ほかにも鉄器や青銅器がつくられ、米の収穫を感謝する祭りでは、銅鐸(どうたく)と呼ばれるものが使われていたとされる。

【紀元0年ごろ】

吉野ケ里遺跡(佐賀県)

土地や保存している米、青銅器や鉄器をめぐって「むら」と「むら」とで争いが起こるようになる。やがて広い地域を支配する「くに」が各地に生まれた。「くに」のリーダーは「豪族」と呼ばれ、次第に全国で争いが大きくなった。戦士は、木の盾や鎧、木の柄に鋭い石をはめてできた「石のほこ」を武器とした。佐賀県には、巨大な「くに」があったとされる吉野ケ里遺跡がある。敵を見張ったと言われる「物見櫓(ものみやぐら)」がそびえている。

【邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)】

200年頃の日本では「くに」どうしの争いが長引いた。これを約30人ほどのくにの「王」たちが、最も強い邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)を連合国の頭として争いをなくした。卑弥呼は宮殿の中で、占いやまじないなどをおこなっていた。卑弥呼は表には出ず、卑弥呼の弟を通して人々へ神のお告げを伝えて「政治」をしていたとされる。

卑弥呼(ひみこ)

【239年】

卑弥呼は、魏(ぎ・中国)に使いを送り込んで「親魏倭王(しんぎわおう・魏と親しい日本の王)」と彫られた金印と100枚にもなる銅鏡(どうきょう)を受け取った。銅鏡には、「景初三年(239年)」と彫られている。金印を受け取った卑弥呼は、アジアで最もつよかった魏の皇帝から「日本の王」として認められた。中国の歴史書物「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によれば、邪馬台国は、日本の南に位置するとされる。有力な説として、九州北部と近畿地方が浮かぶ。ほかにも卑弥呼は、日巫女(ひみこ)や日御子(ひのみこ)、お姫様の意味がある姫子(ひめこ)だとも言われている。

【古墳(こふん)】

約250年~600年にかけて、「くに」の王や豪族たちは、自身の力のしるしとして古墳をつくった。奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)は、250年頃ににつくられた最初の古墳とされているが、卑弥呼の生涯と重なるため、卑弥呼の墓と考えられている。古墳は、全国各地につくられているが、大阪府堺市にある仁徳天皇(にんとくてんのう・16代天皇)の「大仙古墳(だいせんこふん)」が日本最大。毎日約2000人で15年以上かけて作られ、その広さは世界一とされている。

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古墳時代【538年】

古墳時代(538年)に、「仏像」が朝鮮半島の国「百済(くだら)」から日本の欽明天皇(きんめいてんのう・29代天皇)におくられた。天皇は初めて目にする仏像の美しさに感動し、家臣(かしん)をあつめて相談した。中国や朝鮮半島と仲が良かった蘇我稲目(そがのいなめ)は賛成したが、日本の神を祀る役職だった物部尾輿(もののべのおこし)は反対した。困った天皇は、とりあえず賛成した稲目に仏像をあずけた。稲目は自分の屋敷を寺として、仏像を祀り、毎日祈りをささげた。しかしその後、伝染病が大流行した。一方、これを日本の神の祟りとして、すぐに仏像を捨てるべきだとした尾輿は、天皇を納得させ、稲目の寺を焼き尽くし、仏像を川へ投げ捨ててしまった。これ以来、稲目と尾輿は激しく対立することになる。

四天王寺(大阪府)

【蘇我氏と物部氏の対立】

仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の対立は、次の代まで続いた。仏教を信じる蘇我馬子(そがのうまこ・稲目の子)は、屋敷内に寺を建て、仏像を祀った。しかし、またも伝染病が流行ったことをきっかけに、物部守也(もののべのもりや・尾輿の子)によって寺は破壊された。仏教を広めたい馬子は、朝廷の家臣や14歳の聖徳太子(しょうとくたいし)を味方につけて、守屋の住む屋敷に攻撃をした。しかし、物部氏は朝廷の命により軍事を任されていた一族。その強さに蘇我軍の兵士は何度も退却した。聖徳太子は、四天王(仏教を守る神)の仏像を彫り、蘇我軍の勝利とひきかえに仏像を祀る寺をつくると祈った。その願いが叶ったのか、木の上から攻撃する守屋は、蘇我軍の弓で射られて戦死した。これにより蘇我軍の勝利(587年)となり、今の大阪府に四天王寺が建てられた。

【馬(うま)の伝来】

日本に移り住んだ朝鮮半島の人々が、馬を一緒に連れて来たのが始まりとされる。日本に存在しなかった馬は貴重な動物とされ、当時は王や豪族などの身分が高い者しか乗れなかったと言われている。福岡県桂川町(ふくおかけんけいせんまち)にある王塚古墳(おうづかこふん)の内部に、黒馬や赤馬の絵が描かれている。弥生時代の古墳にはなかったが、古墳時代に作られた古墳からは、馬や戦士の埴輪(はにわ)、馬具などが発見された。

まとめ

  • 紀元前1万年ごろ…1万年続いた縄文時代の始まり
  • 紀元前500年ごろ…弥生時代(米づくり)の始まり
  • 紀元0年頃…「むら・くに・豪族・王」の登場
  • 239年…邪馬台国の女王・卑弥呼の登場
  • 538年…古墳時代の始まり・仏教の伝来
  • 587年…蘇我氏が物部氏から勝利する

以上で縄文・弥生・古墳時代のまとめとなります。

ありがとうございました。

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