明治時代【日本の歴史】

日本の歴史
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明治時代【日本の歴史】

明治時代の日本の歴史についてご紹介します。廃藩置県や四民平等などの改革「明治維新」や、大日本帝国憲法の発布をした初代内閣総理大臣・伊藤博文、日清・日露戦争で活躍した人たちの様子が分かります。

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明治維新(めいじいしん)が始まる【1868年】

日本はペリー(黒船)がきて開国をした後、徳川家による江戸幕府の政治体制が崩れた。その後、江戸幕府最後の15代将軍・徳川慶喜大政奉還(たいせいほうかん・政治の実権を朝廷に自ら返すこと)をして、天皇を中心とする明治政府が誕生。明治天皇(めいじてんのう)が五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん・明治政府の基本方針)を発表して「たくさんの意見で政治を決定しよう」などを記した。一方の大久保利通(おおくぼとしみち)や岩倉具視(いわくらともみ)、西郷隆盛や木戸孝允(きどたかよし・桂小五郎)の薩摩藩・長州藩出身者らの明治政府は、日本を強い国にするために、1868年から次々に新しい改革に取り組んだ。1871年には、廃藩置県や四民平等を改革、1873年には地租改正や徴兵令など改革した。これら一連の改革を「明治維新(めいじいしん)」と呼ぶ。

木戸孝允旧宅(山口県萩市)

廃藩置県(はいはんちけん)・四民平等(しみんびょうどう)【1871年】

江戸幕府のときに作られた幕藩体制(ばくはんたいせい・幕府と藩による政治)を版籍奉還(はんせきほうかん・土地(版)と領地(藩)を天皇に返すこと)させ、「廃藩置県(はいはんちけん・藩をなくして県を置くこと)」とした。こうして今までの藩主(はんしゅ・大名)ではなく、明治政府の任命した知事(ちじ・都道府県知事)が政治を動かした。年貢(税)も政府に納めることになり、全国を明治政府が支配した。ほかにも農民や町人の身分をなくして平民(へいみん)とし、名字(みょうじ)や結婚を自由にできる「四民平等(しみんびょうどう)」を改革した。

郵便制度・鉄道の開通【1871年~1872年】

明治時代に入ると、日本に西洋の技術や文化が急速に広がった。東京や横浜では鉄道が開通、大都市では馬車や人力車も走るようになった。洋服や靴を着る人も現れ始める。ほかにガス灯(町の灯り)や富岡製糸場(とみおかせいしじょう・絹をつくる工場)をつくった。日本政府の命令でイギリスの郵便制度を学んだ前島密(まえじまひそか)は、日本にその制度をつくった。運ぶ距離や郵便物の重さによって料金を変える現在の郵便制度は今も引き継がれている。

前島密像(東京都中央区日本橋)

地租改正(ちそかいせい)・徴兵令(ちょうへいれい)【1873年】

江戸時代に納められていた税(年貢)は米だったが、明治政府は土地にかかる税を現金で納める「地租改正(ちそかいせい)」にした。強い日本軍を作るために「徴兵令(ちょうへいれい)」を改革。身体検査に合格後、20歳をむかえた男性は3年間軍隊に入らなければいけなくなった。

大久保利通(おおくぼとしみち・1830~1878年)

大久保利通は、薩摩藩(鹿児島県)の藩士の子として生まれる。西郷隆盛と親友。1858年、島津斉彬(しまづなりあきら・藩主)の死後、島津久光(しまづひさみつ・斉彬の弟)に近づいて薩摩藩の権力をにぎる。薩長同盟が結ばれた後、岩倉具視(いわくらともみ)と強力して大政奉還した徳川慶喜(江戸幕府15代将軍)を新政府に参加させないようにした。岩倉使節団(いわくらしせつだん)に参加後、欧米諸国を見て日本との差に落ち込む。「国内の政治に力を入れて日本を強くすべき」と考え帰国した利通だったが、日本は隆盛を中心に征韓論(せいかんろん・力づくで韓国と交流)の考えが強かった。こうして2人は対立。その後、利通は「内務省(ないむしょう・日本内の政治権力を持つ役所)」を作って近代的な国家を目指したが、不満をもつ士族(元武士)に暗殺される。

大久保利通像(鹿児島県)

木戸孝允(きどたかよし・桂小五郎)

江戸時代の頃、幕府に追われる身だった孝允(桂)は、京都の橋で隠れていた。これに気付いた芸者の幾松(いくまつ)は、孝允(桂)のために何度も足を運んで救った。幕府が滅びた後、2人は結婚、桂小五郎(かつらこごろう)から木戸孝允に名前を変える。廃藩置県を中心に改革した人物。伊藤博文や大久保利通らと、岩倉具視が作った岩倉使節団に参加。

岩倉具視(いわくらともみ・1825~1883年)

岩倉具視は、朝廷に仕える公家(くげ)の生まれ。1862年、朝廷と幕府を協力させようと和宮(かずのみや・公明天皇の妹)と徳川家茂(とくがわいえもち・14代将軍)を結婚させようとした。これが裏目に出て、尊王攘夷派から責められたので朝廷を引退。その後、朝廷から許しをもらって戻る。具視は、大久保利通と協力して大政奉還した徳川慶喜を新政府から遠ざける。新政府に入った後、「岩倉使節団(いわくらしせつだん)」を結成。欧米諸国を見学後、日本を近代化させようと尽くす。

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西南戦争(せいなんせんそう)【1877年】

1871年(明治4年)の明治時代、岩倉使節団が欧米諸国の見学に出発。その間、日本を守っていたのが、西郷隆盛だった。隆盛は征韓論(せいかんろん・力づくで韓国と交流の考え)が強かった。一方、帰国した大久保利通(岩倉使節団)らは、国の産業発展が優先の考えだった。こうして利通と隆盛は対立。隆盛は話し合いに敗れて鹿児島県へ去った。しかし、新政府に不満を持つ士族(元武士たち)が隆盛のもとへ集まった。当時、政府に不満をもつ士族が各地で反乱を起こしていた。隆盛は士族の同盟軍として新政府に立ち向かった。こうして始まった「西南戦争(せいなんせんそう)」だったが、田原坂の戦い(たばるざかのたたかい・熊本県)は特に激しく、1日に32万発の銃弾が飛び交い、弾同士が空中でぶつかるほどだったという。激しい戦いの末、近代兵器を使う政府軍に敗れた隆盛は「もうここでよか」の言葉を最後に城山(しろやま・鹿児島県)で自ら命を絶った。親友だった大久保利通は、西郷隆盛の死を知って泣き叫んだ。この戦いを最後に、全国の士族の反乱はしずめられた。

西南戦争の銃弾跡(鹿児島県)

大日本帝国憲法の発布【1889年】

明治政府は、幕府を倒した鹿児島県と山口県の出身者たちが政治を独占していた。板垣退助(いたがきたいすけ・高知県出身)は、各地で「国民も政治で参加するべきだ」と主張、「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」を各地で行った。一方の政府は国会を開くことを約束後、ヨーロッパで憲法学を学んだ伊藤博文(いとうひろぶみ)を初代内閣総理大臣に任命。1889年(明治22年)、「大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)」を発布した。主権は民衆でなく天皇にあるような憲法だったが、日本はより近代国家となった。翌年、日本で初めての選挙(一定額の税を納める25歳以上の男子のみ対象)が行われ、「第一回帝国議会(国会)」が開かれた。

伊藤博文(いとうひろぶみ・1841~1909年)

伊藤博文は、江戸幕末の長州藩(山口県)で貧しい農家の子として生まれる。17歳で松下村塾に入門。吉田松陰の死後、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)を兄弟子として幕府を倒す活動に加わった。23歳でイギリスに渡った博文は、軍事施設や工場を見学。帰国後、英語と度胸を認められて新政府で外交を任される。岩倉使節団として参加。帰国後、木戸孝允や西郷隆盛、大久保利通「維新三傑(いしんさんけつ)」が相次いで死亡。新政府のリーダーとなり、1882年にヨーロッパに憲法を学びに行く。帰国後、大日本帝国憲法を発布。博文は初代内閣総理大臣に任命される。その後も計4回総理大臣を務めた。日清・日露戦争が起きると戦争を止める外交で活躍。日本が朝鮮半島を領土にすると博文は統監(とうかん・日本が朝鮮に作った漢城の最高責任者)に任命される。満州ハルビン駅で安重根(あんじゅうこん・朝鮮独立運動家)により暗殺される。

伊藤博文旧宅(山口県萩市)

明治天皇(めいじてんのう・1852~1912年)

16歳で天皇の位につくと、徳川慶喜から大政奉還ですぐに政権を返される。新政府として「王政復古(おうせいふっこ・天皇が政治を行うこと)」を掲げて元号を「明治(めいじ)」とした。その後、都を京都から東京に移して新しい改革「明治維新」を行う。1889年の大日本帝国憲法には、日本の政治のしくみや天皇が国の君主(くんしゅ・天子)であると書かれていた。日清・日露戦争では、明治天皇が軍を指揮して日本を勝利へと導いた。明治天皇の死後、明治神宮(めいじじんぐう・東京都)にまつられた。

明治神宮(東京都)

日清戦争(にっしんせんそう)【1894年】

1894年(明治27年)、朝鮮半島の南部で農民の反乱が起きた。日本と清(中国)は協力して兵をおくって反乱をしずめた。しかし清は、朝鮮支配を企んで軍隊をおいたままにした。これがきっかけで日本と清が衝突、「日清戦争(にっしんせんそう)」に発展。近代的な武器を使って清を倒した日本は、世界に実力を示した。1895年、伊藤博文と陸奥宗光(むつむねみつ)らは清と下関(山口県)で「下関条約(しものせいじょうやく)」を結ぶ。清が、日本に台湾や遼東半島(りょうとう)の領土をゆずること、多額の賠償金を払うことを決めた。こうして日本が勝利、朝鮮の独立を認めた。

陸奥宗光(むつむねみつ・1844~1897年)

陸奥宗光は紀州藩(和歌山県)の藩士出身。坂本龍馬の「海援隊」に参加して幕府をたおす活動で活躍。明治維新後、新政府で活躍するも鹿児島県や山口県の人ばかり出世することに怒って新政府をやめる。その後、反政府軍として関わり牢屋に入れられる。罪をゆるされた宗光は、ヨーロッパに渡り、帰国後は外務省(がいむしょう)に入って「外務大臣(がいむだいじん)」に出世。治外法権(ちがいほうけん・日本にいる外国人は日本の法律に従わなくていい条約)をイギリス各国と交渉、条約解消に成功をおさめる。日清戦争後、下関条約を結んだ。

乃木神社(乃木希典・東京都港区赤坂)

日露戦争(にちろせんそう)【1904年】

ロシアは南に勢力を拡大しようと朝鮮半島を狙っていた。こうして日本とロシアは対立。1904年、日本はイギリスと同盟を組んでロシアと「日露戦争(にちろせんそう)」をすることになった。1905年1月、乃木希典(のぎまれすけ)が率いる陸軍は、ロシアの軍の基地がある旅順(りょじゅん)に3度総攻撃をしかけた。多数のケガ人や戦死者が出ながらも旅順を占領した(旅順総攻撃)。1905年5月、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が率いる海軍は、世界最強といわれるロシアのバルチック艦隊を日本海でしずめた(日本海海戦)。こうして日本は勝利。アメリカの仲立ちでロシアと仲直りした日本は、朝鮮半島の支配を進めていった。

乃木希典(のぎまれすけ・1849~1912年)

乃木希典は、長州藩(山口県)出身の藩士。武術を習い軍人になる。ドイツにわたって軍隊について学ぶ。帰国後、日清戦争の陸軍として活躍。日露戦争では陸軍司令官になり、旅順を攻め落とした。戦いの後、ロシア軍の司令官ステッセルと会談。希典の礼儀正しさが世界に報道される。

東郷平八郎(とうごうへいはちろう・1847~1934年)

東郷平八郎は薩摩藩(鹿児島県)出身の藩士。薩英戦争や戊辰戦争に参加。明治維新後、海軍に入る。イギリスで7年間国家間の法律を学ぶ。日露戦争で連合艦隊司令長官に任命される。東郷平八郎は、日本海海戦が始まって爆発が起きたり、水しぶきがかかっても指揮所から一歩も動かなかった。平八郎が動いたのは戦いが終わった後、白い靴跡が残っていたとされる。彼が乗った戦艦「三笠(みかさ)」は、神奈川県横須賀市に保存されている。平八郎は参謀・秋山真之(あきやまさねゆき・作戦を考える人)を深く信頼していた。バルチック艦隊をたおした作戦も真之。当時、世界最強とされたロシアのバルチック艦隊を破った日本に、世界中が驚いた。

三笠(神奈川県横須賀市)

日本が韓国を植民地とする【1910年】

日露戦争後、日本は韓国を支配する権利をロシアから認めさせた。しかし、韓国国民からの反発はすごかった。1909年(明治42年)には、伊藤博文(統監)が、反対派に暗殺される。その後、韓国を日本の領土として「朝鮮」と名付けて植民地にして、京城(けいじょう・ソウル)に朝鮮を支配するため「朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)」を置いた。台湾には「台湾総督府(たいわんそうとくふ)」が置かれた。現在は、台湾の総督府(役所)として使用されている。朝鮮学校では、日本語の授業が行われたが、抵抗する人で溢れていた。

まとめ

  • 1868年…明治維新(めいじいしん)が始まる
  • 1871年…廃藩置県・四民平等の改革
  • 1871年~1872年…郵便制度・鉄道の開通
  • 1873年…地租改正・徴兵令の改革
  • 1877年…西南戦争(せいなんせんそう)
  • 1889年…大日本帝国憲法の発布
  • 1894年…日清戦争(にっしんせんそう)
  • 1904年…日露戦争(にちろせんそう)
  • 1910年…日本が韓国を植民地とする

以上で明治時代【日本の歴史】をまとめとします。

ありがとうございました。

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