大正と昭和時代【日本の歴史】

日本の歴史
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大正時代から昭和時代の日本の歴史についてご紹介します。日本資本主義の父とされる渋沢栄一や千円札にのっている野口英世、関東大震災や太平洋戦争が分かります。ほかにも終戦後の高度経済成長期までおさらいできます。

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大正時代と昭和時代【日本の歴史】

大正時代、たくさんの日本人が都市に集まった。東京や大阪などの大きな都市では、都市郊外の家から都市にある会社に電車通学するサラリーマンが増え始めた。1914年(大正3年)に完成した東京駅は、赤いレンガ造りだった。太平洋戦争で焼け落ちて今の姿に復元されている。大正時代から、洋食の人気に火が付き、コロッケやハンバーグが家庭に普及した。玉ねぎやジャガイモ、ニンジンを使ったカレーライスが始まったのも大正時代。若者は最新のファッションをきて銀座などを歩いた。都市の発展によって日本人の生活は大きく洋風化した。

 東京駅(東京都千代田区丸の内1丁目)

渋沢栄一(しぶさわえいいち・1840~1931年)

渋沢栄一は武蔵(埼玉県)の大きな農家の子として生まれる。江戸時代最後の将軍・第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に仕えた後、徳川明武(とくがわあきたけ・慶喜の弟)につく。明武と共にヨーロッパに渡って、経済や文化を学ぶ。明治時代に入ると、銀行関係の法律をつくる。その後、第一国立銀行(だいいちこくりつぎんこう・みずほ銀行)をつくる。栄一は最高責任者となる。ほかにも500もの株式会社を設立。日本赤十字社(にほんせきじゅうじしゃ)を建てた後、約600の教育機関を応援した。東京ガスや王子製紙(おうじせいし)、京阪電車(けいはんでんしゃ)や東京電鉄(とうきょうでんてつ)、東京証券取引所(とうきょうしょうけんとりひきしょ)やキリンビール・サッポロビールなど500の会社を設立。明治時代~昭和時代にかけて日本に貢献した渋沢栄一は「日本資本主義の父(にほんしほんしゅぎのちち)」と呼ばれている。

渋沢栄一(東京都千代田区大手町)

野口英世(のぐちひでよ・1876年~1928年)

野口英世は福島県の貧しい農家の子として生まれる。1歳の頃に左手に大きな火傷をしてから、そのことでいじめを受け続けた。悔しさをバネにして負けずに猛勉強、学校の先生から優秀な成績が認められて中学校進学の入学助成金を得る。その後、担任教師と同級生に恵まれて左手の手術の寄付金が集められる。術後、医学の素晴らしさに感動した英世は、医学の道へすすむ。寝る間を惜しんで猛勉強、医学試験にパス。左手の手術は成功したが、不自由さは残っていた。それをきっかけとして、英世は病人を治す医者ではなく、病気そのものを研究する職につく。東京の伝染病院ラボで勤めた後、渡米。「誰もがやりたがらない研究にチャンスがある」と思った英世はガラガラヘビの毒を研究、論文を書く。こうして野口英世はいきなりアメリカ医学会で有名となった。

関東大震災(かんとうだいしんさい)【1923年(大正22年)】

1923年9月1日、相模湾(さがみわん・神奈川県)が震源地の最大震度7の大きな地震が関東地方を揺らした。一般の家庭から相次いで火事が発生、東京(震度6)から横浜(震度7)の「関東大震災(かんとうだいしんさい)」は町を火の海にした。東京だけでも死者・行方不明者7万人以上、関東地方全体で約10万5000人が犠牲者となった。約57万戸の建物の崩壊。被害総額は60億円(現在で200兆円)を超えた。関東大震災以後、日本経済は深刻なダメージを受けて不況の時代へと突入した。

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満州事変(まんしゅうじへん)【1931年】

1923年(大正22年)の関東大震災や1929年(昭和24年)に始まった世界的な大不況(世界恐慌)が響いて日本経済はますます立ち行かなくなっていった。日本軍は満州(中国東北部)を植民地化しようと、1931年(昭和6年)に「柳条湖事件(りょうじょうこじけん・満州鉄道の爆破)」を起こして、中国軍のしわざだとして日本軍は戦争に踏み切る。一方の日本政府は戦争を広げるつもりはなかったが、日本軍が政府の命令を無視して満州を占領。1932年、「満洲国(まんしゅうこく)」とした。日本軍は溥儀(ふぎ・中国の皇帝)を形だけのリーダーとして、日本軍のいいなりの国(満州国)をつくったのだ。国際連盟(平和を目指す組織)は、日本の行動を侵略と判断、満州国を認めなかった。こうして日本は国際連盟を抜けて世界から孤立。その後、日本国内では、軍人が次々に政府を暗殺。軍事予算を減らそうとする高橋是清(たかはしこれきよ・大蔵大臣)も「二・二六事件(ににろくじけん)」で犠牲者となった。こうして政府は誰も軍人を止めることができなくなり、1937年(昭和12年)に「日中戦争(にっちゅうせんそう)」に発展した。

太平洋戦争(たいへいようせんそう)1941年(昭和16年)

1939年(昭和14年)、ヨーロッパではドイツvsイギリス・フランスで戦争を開始(第二次世界大戦)。日本はドイツやイタリアと軍事同盟を結んで中国と戦ったが、日本の中国侵略を反対するアメリカが戦争を止めるように鉄や石油の輸出をストップ。しかし、日本はこれを気にせず東南アジアにまで軍隊を進めて対立。1941年(昭和16年)、東条英機(とうじょうひでき・陸軍大臣首相)はアメリカとの戦争を決断。日本はアメリカのハワイにある真珠湾基地(しんじゅわんきち)を攻撃(真珠湾攻撃)、太平洋戦争が始まった。その後、日本は東南アジア各地で勝利。半年後、アメリカ軍の反撃が始まった。1942年、アメリカ軍は日本の都市に空中から爆弾を投下(空襲)。都市の子どもたちは地方へ逃げた(疎開)。1945年4月頃(昭和20年)、東京や大阪では大空襲。沖縄戦ではアメリカ軍が沖縄に上陸、民間人を合わせて20万以上の犠牲者がでた。1945年7月(昭和20年)、日本への降伏要求の最終宣言「ポツダム宣言(米英中三国共同宣言)」が発表された。1945年8月6日(昭和20年・午前8時15分)、アメリカは日本の広島に人類史上初となる原子爆弾(リトルボーイ)を投下。16万人以上の犠牲者を出した。それから3日後の8月9日(午前11時02分)、長崎に「ファットマン・原子爆弾」が投下された。約7万4千人が犠牲となり、建物の約40パーセントは全焼または全半壊となった。広島と長崎で約24万人以上が犠牲となった。こうして1945年8月14日にポツダム宣言を受諾、日本はついにアメリカに降伏した。

原爆ドーム(広島県)

GHO・マッカーサーの改革【1945年】

太平洋戦争後、「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)」によって占領されていた。マッカーサー(GHQ・アメリカ司令長官)は、日本を民主的な国に変えるために多くの改革を行う。「治安維持法(ちあんいじほう・政府に反対する運動)」を廃止して、言論(げんろん・言葉や文で思想を表現すること)の自由を認めること、「婦人参政権(ふじんさんせいけん)」で、満20歳以上のすべての男女に選挙権を与えること、政治に強い影響力を与える大きな会社の解散「財閥解体(ざいばつかいたい)」や「労働組合法(ろうどうくみあいほう・労働者同士が労働者の権利を守る組織)」、「農地改革(のうちかいかく)」では、田畑をもたない小作人に土地を分け与えられるようするなどたくさんの改革を行った。「四大教育指令(よんだいきょういくしれい)」を発布して、小学校を6年間・中学校を3年間の義務教育とした。戦争に関する教育は禁止され、平和の大切さを教育されるようになった。日本の終戦後、校舎が焼け落ちた学校では「青空教室(あおぞらきょうしつ・校庭でイスを並べて授業すること)」や学校給食が始まった。栄養不足の空腹を満たす子どもたちの大事な昼食となった。

太平洋戦没者慰霊公苑(グアム)

日本国憲法の公布【1946年】

憲法は、国の基本的な法律。GHQは明治につくられた大日本帝国憲法が民主的な憲法として十分でないとして改革提案した。その後、GHQの案をとりいれて修正、国会で約4ヶ月かけて話し合いが行われた。こうして1946年11月3日(昭和21年)、「日本国憲法(にほんこくけんぽう)」が公布。「国民主権(こくみんしゅけん・国民が日本政治の決定権を持つこと)」、「平和主義(へいわしゅぎ・国と国の問題に武力を使わないこと)」、「基本的人権の尊重(きほんてきじんけんのそんちょう・生まれながらに人としてもつ36原則の権利)」を柱とした。ほかにも天皇は国の「象徴」とされ、政治の実権をもたないとされた。

サンフランシスコ平和条約【1951年】

1951年(昭和26年)、アメリカのサンフランシスコで行われた講和会議(仲直り会議)では、吉田茂(よしだしげる・内閣総理大臣)が訪問。沖縄小笠原諸島はアメリカ軍の領土となった。こうして日本は連合国(48ヶ国)とサンフランシスコ平和条約を結び、日本として独立を果たした。ほかにも日本とアメリカは「日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)」を結んだ。これは外国からの攻撃を防ぐ目的でアメリカが領土とした沖縄・小笠原諸島にアメリカ軍を配置させる、日本の安全を守るやむを得ない条約だった。当時、吉田茂は「ワンマン宰相(首相)」と呼ばれたが、7年以上も日本の戦後を回復させるたの土台をつくった。

国際連合の加盟【1956年】

1956年、日本はソ連(ロシア)と国交が回復。日本は80ヶ国目の国際連合(国連)加盟国となった。国連は第二次世界大戦を防げなかった反省を踏まえて、国際平和や安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化に関する国際協力の実現を目的とした連盟(現在の加盟国は193ヶ国)。日本は国連に加盟後、国際社会の一員として復帰した。

国際連合本部ビル(アメリカ合衆国・ニューヨーク)

東京オリンピックの開催【1964年】

終戦後、日本は1950年代後半から高度経済成長期(こうどけいざいせいちょうき)に入った。日本の優れた技術が世界に認められ、海外から高く評価。日本製品が多く世界に輸出された。ほかにも白黒テレビや電気冷蔵庫、電気洗濯機などの家電製品が家庭に広まっていった。1958年には高さ333メートルの東京タワーが作られた。当時は世界で最も高い電波塔だった。1964年(昭和39年)、アジアで初めてとなる東京オリンピックが開催された。ほかにもオリンピックに合わせて「東京海道新幹線(ひかり・東京から大阪まで4時間で走る新幹線)」を開通(1964年)。東京都内には高速道路がつくられた。健康保険や年金制度が整ったのもこの頃。日本は終戦後、20年で復興を成し遂げて、世界中の人々をおどろかせた。

東京タワー(東京都港区芝公園)

まとめ

  • 1923年(大正22年)…関東大震災が起こる。
  • 1931年…満州事変が起こる。以後、太平洋戦争に発展する。
  • 1941年(昭和16年)…太平洋戦争が始まる。
  • 1945年…GHO・マッカーサーが多くの改革をする。
  • 1946年…日本国憲法が公布される。
  • 1951年…サンフランシスコ平和条約が結ばれる。
  • 1956年…国際連合に日本が加盟する。
  • 1964年…東京オリンピックが開催される。

以上で大正時代と昭和時代、全ての日本の歴史のまとめとなります。

ありがとうございました。

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