飛鳥・奈良時代【日本の歴史】

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飛鳥・奈良時代【日本の歴史】

飛鳥時代から奈良時代にかけて日本の歴史をご紹介します。推古天皇(すいこてんのう)を筆頭に、おおくの人物が登場します。また、天皇中心の政治となっていく様子が分かります。

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飛鳥時代【593年】

592年、「推古天皇(すいこてんのう)」は女性として初めての天皇になった。しかし、天皇が女性やおさないときは、天皇に代わって政治をおこなう「摂政(せっしょう)」が必要だった。翌年の593年(飛鳥時代)、推古天皇は、おいにあたる聖徳太子(しょうとくたいし・当時20歳)を「摂政(せっしょう)」とした。各地方を支配している豪族の力をおさえ、天皇を中心とした政治を目指す聖徳太子の手助けをした。

冠位十二階(かんいじゅうにかい)

603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を定めて、能力によって高い地位につけることができる役人の制度をつくった。役人は12の位に分けて、冠の色で区別された。身分は関係せず、能力によって位が決められた。6色は濃く、のこりの6色は薄い色で12冠とした。

十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)

604年、聖徳太子は役人の心がまえとして、「十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)」を定めた。「仏を信じて天皇を敬え」「みなで協力しなさい」などが書かれているとされる。

ほかにも聖徳太子は、お経の解説書をつくったり、法隆寺(ほうりゅうじ)や中宮寺(ちゅうぐうじ)を建てたりと積極的に仏教を広めようとした。

小野妹子(おののいもこ)

607年、すすんだ外国の文化をとり入れて、新しい国づくりをしようと目指した聖徳太子は、隋(ずい・中国)に「遣隋使(けんずいし・つかい)」を送ることにした。身分は低いものの、能力が高く「冠位十二階」の制度により出世した小野妹子(おののいもこ)を遣隋使に任命した。

【日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す】

「日がのぼる国の天子(聖徳太子)が日の沈む国の天子(煬帝・ようだい)にお便りします」と書かれた聖徳太子の手紙を、隋の皇帝・煬帝(ようだい)に、小野妹子が渡した。これに激怒した煬帝だったが、最初に送られてきた遣隋使(600年)と違って怯えることなく説明した小野妹子は、煬帝に認められた。こうして日本は隋から対等の関係を築いたとされる。

※煬帝が激怒した理由は「日の沈む国」と表現していたからではなく、聖徳太子を「天子」と表現していたからと考えられている。中華思想だった煬帝は「天子」は彼以外にいないと考えていたので激怒した。また、小野妹子は煬帝から手紙をあずかったが、聖徳太子が激怒する内容だったので、「百済で手紙を盗まれた」と嘘をついたともされている。

聖徳太子のお札

【聖徳太子のウワサ】

  • 「10人の話を同時に聞くことができた」とされているが、10人が順番に話してそれぞれ答えたと言われている。記憶力が良かったのは本当らしい。
  • 2歳のときに東に向かって「南無仏(なむほとけ)」と唱えると、合わせていた手の中から仏の骨が出てきたとか。
  • 聖徳太子の本名は、厩戸王子(うまやとのおうじ)。厩(うまや)は馬小屋のことで、厩の前で生まれたのが、まるでイエス・キリストと同じとされたことが由来で太子(たいし)と名前が付けられた。
  • 聖徳太子の肖像画は彼の死後100年くらい経ったころに描かれたもの。しかも本人を描いたものかも定かでないため、実は聖徳太子なのかはナゾ。
  • 人を超えた能力を持った聖徳太子だが、日本書紀(にほんしょき)以外では描写がないので、存在していたことさえ分からない。

大化の改新(645年)

聖徳太子の死後、蘇我蝦夷(そがのえみし・馬子の子)が政治をした。さらに、蝦夷(えみし)の子・蘇我入鹿(そがのいるか)は、太子一族を滅ぼす。蘇我氏は、また、天皇の存在を無視するように甘樫丘(あまかしのおか・奈良県)に大きな屋敷をつくった。まるで自分が天皇かのように振舞う蘇我氏(そがし・入鹿)を、役人の中臣鎌足(なかとみのかまたり・614~669年)は危ないと感じる。一方、勇気があることで評判がいい中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、けまり(まりをける遊び)をして楽しんでいた。中臣鎌足は、けまりでぬげてしまった王子の靴を拾い、一緒に話をすると仲良くなり、蘇我氏を倒すことをちかい合った。

中大兄皇子(左)・蘇我入鹿(中央)・中臣鎌足(右)

計画を練った2人は、皇居でくつろぐ蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺。「もはやこれまで」と蝦夷(えみし)も屋敷に火をつけて入鹿のあとを追った。これが大化の改新の始まりであり、これ以降、蘇我氏のような各地の豪族の力は落ち、天皇が中心の政治体制が再び整えられていった。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・626~671年)

中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、36代天皇・孝徳天皇(こうとくてんのう)の皇太子(次の天皇)として政治を始める。飛鳥(奈良県)から難波宮(なにわのみや)に都をうつして、大化の改新を確実に実行していった。

  1. 公地公民制(こうちこうみんせい)…各地の豪族が所有していた土地と人民は、天皇のものとすること。
  2. 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)…公地公民制で得た土地を6歳以上の人民へ与えること。
  3. (そ)・(よう)・調(ちょう)…人民に祖(稲)や庸(布または労役)、調(特産物)を納めさせる税の制度のこと。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、天皇中心の政治を徹底するため、「豪族」の親から子への役職の引き継ぎも禁止した。白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・663年)では、親しかった国「百済(くだら)」に応戦するため唐(とう・中国)や新羅(しらぎ・朝鮮半島の国)と戦うも大敗。その後、両国が日本に攻め込んでくるのを恐れて大野城(北九州)と水城(みずき・堤防)をつくった。都を近江大津宮(おおみおおつのみや・滋賀県)に移してから第38代・天智天皇となり、日本で最初の法律「近江令(おうみりょう)」をつくった。

壬申の乱(じんしんのらん・672年)

大海人皇子(おおあまのおうじ・天智天皇の弟)と大友皇子(おおともおうじ・天智天皇の子)が起こした天皇後継ぎ争い。生前、天智天皇は大友皇子を次の天皇にしたがっていた。そのため大海人皇子は、自分の身を案じて吉野(よしの・奈良県)に移っていた。天智天皇の死後、大友皇子が後継者となり、大海人皇子が吉野宮(よしのみや)で朝廷に反乱を起こしたことがきっかけとなり、壬申の乱が始まった。彼の軍は大友皇子の朝廷軍を各地でたおし、瀬田橋の戦い(せたばしのたたかい・滋賀県)で最終決戦となり勝利した。負けた大友皇子は自ら命を絶った。壬申の乱後、大海人皇子(おおあまのおうじ)は大津(おおつ・滋賀県)から飛鳥(あすか・奈良県)に都をうつし、天武天皇(てんむてんのう・次の天皇)となった。

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奈良時代【710年】

天武天皇の死後、持統天皇(じとうてんのう・天武天皇の妻)が日本で初めてとなる都(国)藤原京(ふじわらきょう・奈良県)」をつくった。持統天皇の死後、勢力がある豪族に政治を邪魔されるのを恐れた藤原不比等(ふじわらのふひと・中臣鎌足の子)は、元明天皇(げんめいてんのう)にお願いして藤原京から「平城京(へいじょうきょう・奈良県)」に都をうつした。平城京の中でもっとも大きな宮殿は、大極殿(だいごくでん)で、天皇の儀式などで使われていた。外国からの遣いが訪れるときは、朱雀門(すざくもん)でむかえた。

朱雀門

外国の文化をとりいれた朱雀大路(すざくおおじ・大通り)が南北に走っており、左京(さきょう・東)と右京(うきょう・西)に分けられていた。朱雀大路の北の端には、天皇が生活をする内裏(だいり)があった。平城京は、花のかおりで溢れているとされるほど美しい都だったとされ、現在でも「710年きれいな平城京」と覚えられている。

古事記(こじき)【712年】

日本で初めてとされる歴史書「古事記(こじき)」が完成する。全体のおよそ3分の1が神話で、イザナギ・イザナミなどが登場する。太安万侶(おおのやすまろ・~723年)が、元明天皇の命でまとめた。

日本書紀(にほんしょき)【720年】

日本で初めての正式な歴史書「日本書紀(にほんしょき)」は、全て漢文で書かれていて神話は、1割ほどしか載っていない。舎人親王(とねりしんのう・天武天皇の子)がまとめた。

日本神話のあらすじ

イザナミとイザナギは天から矛で海をかきまぜて日本列島をつくった。太陽の神・天照大御神(アマテラス・イザナギの子)が世界を支配するが、スサオノが天上で乱暴をくりかえすので、飽きれたアマテラスは天岩戸(あまのいわや)に隠れた。太陽の神・アマテラスがいなくなったことで世界は真っ暗になってしまった。これに困った神々は、天岩戸でアマテラスを説得して誘いだした。

【ヤマタノオロチとの戦い】

天上から追放されたスサオノは、地上に降りてヤマタノオロチ(8つの頭をもつ大蛇)を退治する(出雲・島根県に伝わる神話)。

【因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)】

オオクニヌシ(スサオノの子孫)は、サメに皮をはがされ弱ったウサギを助ける。事情を聞いた彼は、「河にいって真水で体を洗い流し、蒲(がま)の穂をつけなさい」とウサギにソッと教えてあげた。ウサギは言う通りにすると、体のキズは癒えて、毛も元通りになった。

神の子孫・神武天皇(じんむてんのう)

アマテラスが地上にタケミカヅチをオオクニヌシに送った。国を譲ることを求められたオオクニヌシはこれを渋々承諾した。こうして、ニニギ(アマテラスの孫)が神がみと一緒に地上に降臨。その子孫が最初の天皇・神武天皇(じんむてんのう)になる。

東大寺(とうだいじ)【752年】

聖武天皇(しょうむてんのう・701~756年)は、行後(ぎょうご・民衆に人気があった僧)に命じて、仏教で国を平和にしようと国分寺(こくぶんじ・国分尼寺)を全国につくり、総本山の東大寺(とうだいじ)を平城京に建てた。東大寺の大仏殿(だいぶつでん)は751年に完成。743年に作り始めた巨大な大仏は、752年に完成した。

【奈良県】東大寺の大仏

聖武天皇の頃、伝染病や食料不足、地震や各地で反乱、朝廷では権力争い、政治の不安定さが巨大な大仏を作るきっかけとなった。大仏に神聖な魂をいれる儀式「大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)」では、インドや中国からきた約1万人の僧が参加したと言われている。

鑑真(がんじん)の到来【753年】

聖武天皇は、遣唐使(けんとうし)を唐(とう・中国)に送った。日本で僧になりたい人に戒律を正しく授けられる僧を探した結果、唐で優れた鑑真(がんじん・688~763年)に出会う。遣唐使としてきた僧の話を聞いた鑑真は快諾した。ところが航海は失敗つづきだった。鑑真は5回目の航海で南の島にながされたとき、疲れのあまり失明してしまった。ようやく日本へたどり着いたのは6回目の航海(鑑真66歳)。平城京についた彼は、聖武天皇をはじめ、僧たちにも戒律を授ける。東大寺には戒壇院(かいだんいん)をつくり、唐招提寺(とうしょうだいじ)を建てた。「生き物をあやめないことを守りますか?」と戒律を質問して、それに答えることができた者のみ、正式な僧となれたと言われている。日本の仏教発展に大きく貢献した。

【仏像の姿】

飛鳥時代の仏像は、朝鮮半島の影響により、優しく微笑んでいる顔が特徴。遣唐使によって作られた頃の仏像は顔立ちや体型が美しい姿になっている。興福寺にある阿修羅像(あしゅらぞう・戦いの神)などが挙げられる。鎌倉時代には、よりリアルで迫力のある仏像が作られている。死者を極楽浄土(ごくらくじょうど)に導く仏「阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)」や、怒った顔をしているが内面は愛にあふれている愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう・6本の腕と3つの目)がつくられている。

まとめ

  • 593年…推古天皇の摂政として聖徳太子が天皇中心の政治をする。
  • 603年…冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制定。
  • 604年…十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)をつくる。
  • 607年…隋(ずい・中国)に小野妹子を遣隋使としておくる。
  • 645年…中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼしたことで大化の改新が始まる。
  • 663年…白村江の戦いで百済に応戦するも唐と新羅に大敗する。
  • 672年…壬申の乱は、大海人皇子と大友皇子が起こした天皇後継ぎ争い。
  • 710年…日本で初めてとなる藤原京ができ、平城京に都をうつす。
  • 712年…日本で初とされる歴史書「古事記」が完成する。
  • 720年…日本で初となる正式な歴史書物「日本書紀」が完成する。
  • 752年…東大寺の大仏が完成する。
  • 753年…鑑真が日本に到来する。

以上が飛鳥時代から奈良時代の日本の歴史まとめとなります。

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ありがとうございました。

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