戦国時代【日本の歴史】

日本の歴史
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戦国時代【日本の歴史】

戦国時代の日本の歴史についてご紹介します。最初の戦国大名・北条早雲や毛利元就、織田信長や上杉謙信、武田信玄など戦国時代を駆け抜けた人々が登場します。戦国大名たちのあつい領地争いの様子がよく分かります。

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戦国時代

1495年、応仁の乱によって室町幕府の力はなくなり、各地方では幕府に従わない大名(だいみょう)が増えた。大名(主君)に家臣(かしん・家来)が下克上(げこくじょう・主君を倒すこと)をしたり、各土地を支配する大名同士の争いが広がって新しい大名が次々に生まれた。大名たちは戦国大名(せんごくだいみょう)とも呼ばれ、激しい戦いが繰り返された時代を「戦国時代(せんごくじだい)」と呼ぶ。

最初の戦国大名・北条早雲(ほうじょうそううん)

北条早雲(ほうじょうそううん・1432~1519年)はもともと室町幕府の家臣として動き、今川家(いまがわけ)の後継ぎ争いが起きた駿河国(するがのくに・静岡県)を領土とした。その後、伊豆国(いずのくに・静岡県)や相模国(さがみのくに・静岡県)の大森氏から小田原城(おだわらじょう・1495年)を奪いとった。さらに北条早雲は、東の三浦島(みうらしま)を領土にして関東の大きな戦国大名となった。領土を大きく広げたが早雲は、公平に税(ぜい・米)を受け取ったり、大きく税を減らしたので農民から感謝された。

北条早雲(神奈川県小田原市)

鉄砲(てっぽう)の伝来【戦国時代・1543年】

1543年、ポルトガル人が南蛮船(なんばんせん)の貿易で、日本に火縄(ひなわ)と呼ばれる短いヒモに引火させて弾丸(だんがん)を飛ばす鉄砲(てっぽう・火縄銃)を持ってきた。当時、種子島(たねがしま・鹿児島県)を支配していた種子島時尭(たねがしまときたか)は、試しに鉄砲を使ってみる。その威力に満足した時尭は、鉄砲を2丁のみ買って、それを優秀な鉄加工の技術をもった刀職人(かたなしょくにん)に真似して作らせた。こうして日本は当時、世界一の鉄砲生産国となり、その鉄砲は種子島(たねがしま)と呼ばれた。その後、鉄砲はどんどん改良されて約50~100メートル先の敵を撃てるようになった。戦国時代の末には、5センチ以上の大きな弾丸が使用されるようになる。

ザビエル(1506~1552年)

スペインの宣教師・ザビエルが鹿児島に来日、キリスト教を伝えた。

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)【1555年】

戦国時代、中国地方では大名たちが領土をめぐって激しい戦いをしていた。当時、安芸国(あきのくに・広島県)の領主・毛利元就(もうりもとなり・1497~1571年)は、大内氏(おおうちし・中国地方西部の領主)と尼越氏(あまごし・山陰地方)にはさまれて苦戦していた。しかし、大内氏内部で争いが勃発して家臣の末晴賢(すえはるかた)が実権をにぎることになる。これをチャンスとみた毛利元就は村上水軍(むらかみすいぐん・瀬戸内海の海賊)を味方に付けて、家臣には厳島(いつくしま・広島県)に城を建てるように命じた。その後、ウソの情報を末晴賢軍に流して厳島に彼の大軍を上陸させる。元就軍は晴賢軍を背後から奇襲攻撃、村上水軍は海で待ち構えて晴賢軍の逃げ道をふさいだ。勝利をおさめた毛利元就は、尼越氏も滅ぼして中国地方10ヶ所の領土をすべて支配。1555年、毛利元就は「厳島の戦い(いつくしまのたたかい)」で大きな力を持った大名となった。

勝敗:(〇)毛利元就【兵力5千】vs(✕)末晴賢【兵力2万】

毛利元就(三矢の訓・山口県萩市)

毛利元就の「三矢の訓え(さんしのおしえ)」

三矢の訓えは、毛利の将来のため3人の息子に残したとされる毛利元就の教訓。「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめて束にすれば折れない。それとおなじように、3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」。

  • 毛利隆元(もうりたかもと)

元就の長男・毛利隆元(もうりたかもと)は、毛利家を継いだ。

  • 吉川元春(きっかわもとはる・1530~1586年)

元就の次男・吉川元春(きっかわもとはる・1530~1586年)は、生涯76合戦のうち64勝無敗12引き分けの成績をおさめたとされる優秀な人物。

  • 小早川隆景(こばやかわたかかげ・1533~1597年)

元就の三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下統一することを予想して、秀吉に先回りして協力、毛利家を守ったとされる優秀な人物。

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桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)【戦国時代・1560年】

今川義元(いまがわよしもと)は、駿河(するが・静岡県)と遠江(とおとうみ・静岡県)、三河(みかわ・愛知県)の三つの国を支配していた。義元の家臣(かしん・徳川家康)は織田信長の城を二つ攻め落としていた。こうして義元は2万5千の兵を連れて、織田信長(おだのぶなが)が支配している尾張国(おわりのくに・愛知県)にむかった。一方、大軍を率いて攻め込んだことを知った織田信長は、人間五十年ではじまる曲・敦盛(あつもり)に合わせて舞った後、わずかな家臣を連れて熱田神宮(あつたじんぐう・名古屋市)にむかう。その頃、今川義元は突然降ってきた大雨によって桶狭間(おけはざま)で休んでいた。偵察をしていた信長の家臣はこれを報告。腕の立つ2千の兵のみを連れて今川義元がいる本陣(大将がいる場所)に乗り込むことにした。遠くまで見えないほど大雨が降っていたので、気付かれずに本陣に入れた信長。織田信長率いる2千の兵とともに、完全に油断していた義元の本陣におそいかかる。雨があがったと同時に突如現れた織田軍にびっくりした今川軍は大混乱。今川軍が逃げ出す中、義元はあっけなく織田軍によって首をとられた。1560年桶狭間の戦いで今川義元を破った「織田信長」の名が、全国にとどろいた。

勝敗:(〇)織田信長【兵力2千】vs(✕)今川義元【兵力2万5千】

織田信長(愛知県清須市)

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)【戦国時代・1561年】

甲斐国(かいのくに・山梨県)を支配する武田信玄(たけだしんげん)、越後国(えちごのくに・新潟県)を支配する上杉謙信(うえすぎけんしん)。彼らは川中島(かわなかじま・長野県)で5度の激しい戦いをした。その中でも特に、1561年の4度目となる川中島の戦い(かわなかじまのたたい)がもっとも凄まじかった。上杉謙信は越後(えちご)から、周囲がよく見える妻女山(さいじょさん・川中島)に陣地をつくる。一方の武田信玄は、別働隊(べつどうたい)を謙信のいる陣地の背中から向かわせる。これに気付いた上杉謙信はひそかに山を下りて、油断していた武田信玄がいる本陣に先制攻撃をしかけた。謙信が自ら刀で切りかかったが、信玄はその刀を軍配(ぐんぱい・指揮に使ったうちわ)で受け止めた。その後、信玄の向かわせた別働隊が戻ってきたことで戦いは引き分けとなった。その後、お互いに多数の戦力を失った結果、織田信長がどんどん勢力を広げていった。

勝敗(引分)武田信玄【兵力2万千】vs(引分)上杉謙信【1万8千】

武田信玄vs上杉謙信(長野県長野市・八幡原史跡公園)

まとめ

  • 1495年…戦国時代の始まり、最初の戦国大名・北条早雲の登場。
  • 1543年…ポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝来する。
  • 1555年…毛利元就と末晴賢による厳島の戦いが起こる。
  • 1560年…織田信長と今川義元による桶狭間の戦いが起こる。
  • 1561年…5回も戦ったが決着がつかなかった上杉謙信と武田信玄の川中島の戦い。

以上で戦国時代【日本の歴史】についてまとめとなります。

ありがとうございました。

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