江戸時代・鎖国の始まり【日本の歴史】

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江戸時代・鎖国の始まり【日本の歴史】

江戸時代の鎖国の始まりから江戸の半ばまでの日本の歴史についてご紹介します。天草四郎や大塩平八郎の一揆や幕府が行った享保・寛政・天保の改革、江戸時代の人の暮らしなどがよく分かります。

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島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)【1637年】

江戸時代、徳川家康はヨーロッパと盛んに貿易した。その結果、キリシタン(キリスト教を信じる人)が増加。キリシタンの勢力を恐れた幕府はキリスト教を禁止、厳しく取り締まった。島原(しまばら・長崎県)・天草(あまくさ・熊本県)では、生活ができなくなるほどの年貢(ねんぐ・税)を農民から取り立てた。1637年、不満を爆発させたキリシタンは、天草四郎(あまくさしろう)をリーダーとして、「島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)」を起こした。原城(はらじょう)に立てこもって幕府軍と激しく戦った天草たちだったが、最期は全員が全滅。徳川家光(とくがわいえみつ・3代将軍)は、この一揆をきっかけにしてキリスト教の取り締まりを強化した。

原城(長崎県)

天草四郎(あまくさしろう・1621~1638年)

天草四郎は、キリシタンの美少年で「救世主」とあがめられていた。島原・天草一揆では、「天草四郎陣中旗(あまくさしろうじんちゅうき)」を掲げて幕府軍と戦う。幕府軍の大将・副大将に重傷を負わせるなどして有利に戦ったが、幕府軍によって食べ物がとどかないようにされ、やがて体力勝負となる。「今この城にいる者(キリシタン)は、生まれ変わっても友だちだ」と別れを告げて天草四郎は最期を迎えた。約4ヶ月かかったこの一揆は、1名を除いて全員が命を落とした。

天草四郎像(熊本県上天草市)

鎖国の始まり【1641年】

江戸幕府は貿易する国をスペインを外してポルトガルやオランダ、中国に絞った。1634年には「出島(でじま・オランダと貿易する人工の島)」を長崎につくった。天草四郎の一揆の後、キリスト教を広めるおそれがあるポルトガルとの貿易をやめた。こうして海外と貿易する国をオランダと清(中国)だけに制限。200年以上続く「鎖国(さこく・貿易の制限)」が始まった。

明暦の大火(めいれきのたいか)【1657年】

江戸時代、家を壁でしきって2世帯が共同で住む「長屋(ながや)」が主流だった。小さい台所に、約4畳半の部屋があるだけの作りだったので、庶民は必要な道具以外はほとんど家に持っていなかった。長屋は木造で、並ぶように長屋が建てられていたので火事が起きることがよくあった。なかでも1657年に起きた「明暦の大火(めいれいきのたいか)」は江戸の約60パーセントが焼け野原になり、10万を超える犠牲者がでた。江戸城の天守も焼け落ちてしまった。幕府はこれ以来、道路を広くしたり、火事を知らせる「見張り櫓(やぐら)」を町につくった。

越後屋(えちごや)【1683年】

1683年、駿河町(するがちょう・東京都中央区)に三井家が開いた和服を売るお店「越後屋(えちごや)」があった。当時、どこの御店も代金のやり取りはつけ払いだったが、越後屋は値段交渉で安くしてあげる代わりにその場で代金をもらっていた。この新しい発想が庶民に広まって越後屋は商売繫盛した。ちなみにかけ値を高くしていたので、値下げ交渉されても損はしなかった。当時の越後屋は、現在の三越百貨店(みつこしひゃっかてん)にあたる。

生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)【1685年】

徳川綱吉(とくがわつなよし・5代将軍)は、後継ぎの子がなかなか生まれなかった。「綱吉様は戌年なので、犬を大切にしてください。すると後継ぎが生まれるでしょう。」と困っている綱吉に親しかった僧がアドバイスした。その後、犬や猫だけでなく牛や馬、鳥やネズミなどの小さな動物の殺生を禁止する法律をつくった。これが「生類憐みの令」である。特に犬を愛した綱吉は、犬屋敷(いぬやしき・東京都)をつくってたくさんの犬を保護した。えさ代だけでも約10万両(約100憶)かかった。この法律で苦しんだ庶民は綱吉を「犬将軍」と呼んだ。

犬屋敷跡(東京都・中野区役所敷地内)

赤穂事件(あこうじけん)【1702年】

浅野長矩(あさのながのり・赤穂藩の藩主)は、吉良義央(きらよしなか)から朝廷が幕府にきたときのおもてなし作法を教えてもらえなかったので、毎回恥をかかせられていた。1701年、長矩は意地悪をした義央を江戸城の廊下で切りかかって軽いケガを負わせた。その後、徳川綱吉は「城で刀を抜くとは許せない」と長矩に切腹を命令。彼が率いる赤穂藩(あこうはん・兵庫県)も解散させることを決定。一方の義央は無罪となった。これを聞いた大石良雄(おおいしよしお・長矩の家臣)は、長矩(藩主)の弟を藩主として、ふたたび赤穂藩をつくることを幕府にお願いしたが、聞き入れてもらえなかった。良雄は藩主(長矩)の仇を討つと決めて、元赤穂藩の浪士(ろうし・主人のいない武士)たちとともに義央の住む吉良邸(きらてい)に向かった。1702年、彼らは義央の首をとって長矩の墓においた。幕府の法律にさからったとして全員切腹となったが、庶民からは藩主思いな浪士たちとしてほめられた。これが赤穂事件である。

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享保の改革(きょうほうのかいかく)【1716年】

江戸時代の半ば、商品の値段が上がっても年貢(幕府の収入)が変わらないことに幕府は困っていた。そんな矢先、7代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)の死を最期に徳川家の血筋は途絶えてしまった。そこで幕府は、紀州藩(きしゅうはん・和歌山県)の藩主・徳川吉宗(とくがわよしむね)を将軍として迎えて幕府の危機を乗り越えようとした。吉宗は「倹約令(けんやくれい・贅沢禁止の法律)」をつくり、幕府の人々に初代将軍・家康のように贅沢をせず、武芸にはげむことを誓わせた。大名たちには米を多く納める「上げ米(あげまい)」の代わりに、参勤交代の期間を減らすことを約束した。ほかにも「新田開発(しんでんかいはつ・田を開くこと)」で農民から年貢を多くもらおうとした。徳川吉宗は「目安箱(めやすばこ・幕府への手紙入れ)」を作って庶民からの意見を集めた。「町火消し(まちびげし・町の消火組織)」や「公事方御定書(くじかたおさだめがき・裁判の基準となる法律)」、「小石川養生所(こいしかわようじょうしょ・無料の町病院)」をつくった。このような一連の改革は「享保の改革(きょうほうのかいかく)」と呼ばれ、幕府のお金は少し増えて、庶民の不満は大きく増えた。

田沼時代の始まり【1767年】

年貢(お米)をお金に変えて生活していた幕府だったが、江戸の半ばに入ると経済が盛んになったのでお金が足りなくなった。幕府の実権をにぎっていた田沼意次(たぬまおきつぐ・側用人・老中)は、幕府のお金を増やそうと新しい銀貨をつくり、お金を使いやすくする。お金をより使いやすくして、百姓(農民)だけでなく町の商人からもお金をとろうと考えたのだ。こうして株仲間(商人・職人の組合)を認める代わりに、町の商人から税金を取った。幕府は商人から集めたお金で新田開発(新しい田を開くこと)して、百姓からさらに年貢を取り立てた。一方の大商人(株仲間)は、幕府にわいろ(不正なお金)を渡して商売を独占する者が増えた。商人ばかり有利な経済に、百姓の不満は次第に溜まっていく。1783年、浅間山(あさまやま)が大噴火。大量の火山灰(かざんばい)が田の野菜にかぶさり、太陽の光を遮断。作物が育たなくなってしまった。これにより「天明の飢饉(てんめいのききん・食糧不足)」が発生、百姓(農民)はついに不満を爆発させた。百姓(農民)をやめて商人になる者や、百姓一揆(年貢を減らす運動)が相次いで起こった。これらの災害は意次の政治が悪いせいだとして、幕府は彼を退職に追い込んだ。こうして「田沼時代(たぬまじだい)」は幕を閉じたのだった。

金貨・銀貨・銭貨

今のお金は円(えん)単位を使っているが、江戸時代では金貨・銀貨・銭貨の3種類のお金があって単位もそれぞれちがった。金貨なら小判(こばん)が使われ、単位は両(りょう)。1両で約10万円の価値があった。銀貨はその重さで価値が変わり、単位は匁(もんめ)。50~60匁で1両と同じ価値があった。ちなみに銀貨は銀座(ぎんざ)と呼ばれるところで作られており、現在の東京都の地名「銀座(ぎんざ)」にあたる。これら2種類はおもに商人の間で使われ、千両箱(せんりょうばこ・1億円)には25両(250万円)1組の小判が40組入った。一方の銭貨の単位は文(もん)で、1文でおよそ20円。銭貨は庶民が使っていた。

銀座跡(銀座2丁目標識横・東京都)

「解体新書(かいたいしんしょ)」【1774年】

江戸時代の半ば、オランダとの貿易でオランダ語の書物が日本に輸入されるようになり、新しい知識や技術を研究する「蘭学(らんがく)」が盛んになった。当時、町の医師だった杉田玄白(すぎたげんぱく)は、オランダ語で書かれた人体解剖書「ターヘル=アナトミア」を手に取った。彼はその本を見ながら実際に人体の解剖をしたところ、解剖書の正確さにびっくりした。こうしてオランダ語で書かれた人体解剖書を日本語に訳すことを決意。玄白は平賀源内(ひらがげんない)や前野良沢(まえのりょうたく)、小田野直武(おだのなおたけ・源内の弟子)たちと、辞書もない状態で約4年かけて「解体新書(かいたいしんしょ・日本語訳)」を完成させた。ほかにも、完成までの記録を「蘭学事始(らんがくことはじめ)」にまとめた。後の福沢諭吉(ふくざわゆきち)が読むことになる。

杉田玄白(すぎたげんぱく・1733~1817年)

医者の子として生まれた、日本橋の町医者。

平賀源内(ひらがげんない・1728~1779年)

平賀源内は高松藩(たかまつはん・香川県)の武士で、長崎でオランダ語や医学、油絵を学ぶなど幅広く活躍。夏にお客がはいらないと嘆くうなぎ屋に、「土用丑の日(どよううしのひ)」にうなぎを食べる広告を考えるなどして喜ばせた。人の命をうばってしまい、獄中で最期となる。杉田玄白とは親友。

寛政の改革(かんせいのかいかく)【1787年】

松平定信(まつだいらさだのぶ・白川藩主)は、田沼意次が退職した後、天明の飢饉(てんめいのききん・食糧不足)から庶民を助ける政治をしたり、白川藩(しらかわはん・福島県)から飢餓する者をださなかったなど、才能を認められ老中(ろうじゅう・幕府の最高職)に任命された。その後、「棄捐令(きえんれい・幕府の家臣や商人の借金を消すこと)」や「囲米(かこいまい・全国各地で米を蓄えさせること)」を命令した。ほかにも幕府で「朱子学(しゅしがく・上下関係重視の学)」以外の講義を禁止する「寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)」を定め、1790年には、江戸にいる戸籍のない人や軽犯罪者を収容して社会復帰させる「人足寄席(にんそくよせば・職業訓練場)」をつくった。これら一連の「寛政の改革(かんせいのかいかく)」はとてもきびしく、庶民や武士からきらわれた。こうして松平定信は、徳川家斉(とくがわいえなり・11代将軍)から老中の位をおろされた。

石川島の灯台(人足寄場にあった灯台・東京都中央区佃公園)

大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)【1800年】

伊能忠敬(いのうただたか)は、下総国(しもうさのくに・千葉県)の商人。「学問をしたい」夢を叶えるために50歳の時に、店を長男に渡して江戸を出た。その後、幕府の天文方(てんもんかた・暦を作る役職)の下で天文(てんもん・星の観察)や測量術(そくりょうじゅつ)を学ぶ。その勤勉さがかわれて幕府から蝦夷地(えぞち・北海道)や東北地方の測量を任された。正確な測量だったので、全国の測量を任されることになる。56歳から17年間かけて約4万キロメートル(地球1周分)を測量した。途中で忠敬は病死してしまったが、その3年後に弟子が「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を完成させる。これにより日本全体の姿が世に広まった。

伊能忠敬(富岡八幡宮・東京都)

大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)【1837年】

江戸時代、食糧不足や重い年貢(税)のせいで農民たちは生活に苦しみ、各地で一揆(いっき)が頻繁に起きていた。そんな中、大坂町奉行所(おおさかまちぶぎょうしょ・幕府の役所)の元補佐官だった大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、奉行所に天保の飢饉(てんぽうのききん)で苦しむ人たちをたすけるようにお願いした。平八郎は自分の本を売って庶民を救ったが、一向に変わらない幕府に仲間を集めて反乱することにした。米を独占して買い占めていた大商人の屋敷や、米屋を大砲で攻撃した。これらの「大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)」は半日でしずめられたが、元役人が起こした乱だったことから幕府はとてもびっくりした。

天保の改革(てんぽうのかいかく)【1841年】

唐津藩(からつはん・長崎県)の水野忠邦(みずのただくに・藩主)は権力者になりたい夢があった。お金などの賄賂をおくって幕府入りすると、徳川家斉(とくがわいえなり・11代将軍)の下で老中として出世した。家斉の死後、忠邦は幕府の力を直ぐに取り戻そうと「天保の改革(てんぽうのかいかく)」を始めた。商品の値段を下げようと商業を独占していた「株仲間の解散(かぶなかまのかいさん・商人や職人の組合解散)」させ、江戸に出稼ぎにきた農民を農村に帰らせる「人返しの法(ひとがえしのほう)」を命令して農村を豊かにしようとした。ほかにも庶民に「倹約令(けんやくれい・贅沢禁止令)」できびしく取り締まった。江戸と大阪周辺の土地を幕府の領土として、もともとの領主をよそへ追いやろうともした(上知令・あげちれい)。このような一連の「天保の改革」は、庶民の不満をつくるだけで失敗におわった。忠邦は2年あまりで位を下ろされただけでなく、数千人の江戸市民から石を投げられた。

江戸時代の人々

江戸の半ば、江戸の人口は100万を上回っていた。その大半が男性で、結婚していない人が多い町だった。このような男性に好まれた食事場「屋台」には、寿司や天ぷら、そばなど豊富にあった。ちなみに当時のにぎり寿司は現在の2倍の大きさがあった。短気な江戸っ子に人気だったとされている。江戸の人々は「怖い話」が大好きで、天狗(てんぐ)や鵺(ぬえ)などの妖怪たちが歌舞伎(かぶき)に登場した。1750年ごろ、鈴木春信(すずきはるのぶ)らによって「錦絵(にしきえ・印刷技術)」が開発されると浮世絵(うきよえ・江戸時代の人・風景画)が大流行した。葛飾北斎(かつしかほくさい)の富岳三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)や、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の「三世瀬川菊之丞の田辺文三妻おしづ」、妖怪たちも描かれて人気を集めた。土蜘蛛やろくろ首、からかさ小僧や玉藻の前(たまものまえ)、海坊主や河童など数多くある。江戸のこどもたちは「寺子屋(てらこや・塾)」で読み・書き・そろばんを勉強していた。6歳ごろから寺子屋に入門して勉強に努めていたため、江戸時代末の日本人は文字を読める割合が世界一だったと言われている。ほかにも医学が今と比べると発達していなかったので、子どもたちが無事に育つようにと「お祝い事」が多かった。

江戸の子どもの行事

  • 1月…年はじめの「書き初め」
  • 2月…寺子屋に入学
  • 3月…ひな祭り。
  • 4月…初鰹(はつがつお)を食べる。
  • 5月…端午の節句
  • 6月…蛍狩り(ほたるがり)
  • 7月…七夕
  • 8月…月見(つきみ・8月15日の満月日)
  • 9月…「重陽の節句(ちょうようのせっく・9月9日に菊の花をながめる)」
  • 10月…紅葉狩り
  • 11月…七五三(3歳は髪置、5歳の男の子は袴着、7歳の女の子は帯解)
  • 12月…餅つき

まとめ

  • 1637年…島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)
  • 1641年…鎖国の始まり
  • 1657年…明暦の大火(めいれきのたいか)
  • 1685年…生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)
  • 1702年…赤穂事件(あこうじけん)
  • 1716年…享保の改革(きょうほうのかいかく)
  • 1767年…田沼時代の始まり
  • 1774年…「解体新書(かいたいしんしょ)」
  • 1787年…寛政の改革(かんせいのかいかく)
  • 1800年…大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)
  • 1837年…大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)
  • 1841年…天保の改革(てんぽうのかいかく)

以上で江戸時代・鎖国の始まり【日本の歴史】まとめとなります。

ありがとうございました。

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