鎌倉時代【日本の歴史】
鎌倉時代の日本の歴史についてご紹介します。源頼朝の鎌倉幕府(かまくらばくふ)や文永の役・弘安の役で登場する北条時宗(ほうじょうときむね)とフビライ(中国・宋の皇帝)の戦い、有力な御家人によって「鎌倉幕府」が滅んでいく様子まで分かります。
鎌倉時代・鎌倉幕府(かまくらばくふ)の成立【1185年】
源義経(みなもとのよしつね)の活躍によって平氏は滅んだ。源頼朝(みなもとのよりとも・義経の兄)は、鎌倉(かまくら・神奈川県)に武士が中心の政治を作りはじめる。御家人(ごけにん・頼朝に仕える幕府の武士)を「守護(しゅご・軍事や警察の仕事をする職)」と「地頭(じとう・税(米)を取り立てる職)」に分けて、全国各地に武士(ぶし・源氏)の政権をつくり頼朝政権を誕生させた。1192年、朝廷から認められた頼朝は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん・政治を動かす力を持つ将軍)になった。こうして鎌倉時代に「鎌倉幕府(かまくらばくふ・武士による政府)」ができた。
源頼朝の像(神奈川県・源氏山公園)
源頼朝(みなもとのよりとも・1147~1199年)
鎌倉幕府で源頼朝(みなもとのよりとも・征夷大将軍)が襲われたときは、御家人一族に守ってもらった。彼はその代わりとして御家人に領地(りょうち・新しい領地など)の支配を認めた。初代将軍・源頼朝は北条政子(ほうじょうまさこ)と結婚後、源頼家(みなもとのよりいえ・2代将軍)と源実朝(みなもとのさねとも・3代将軍)を授かった。頼朝の死後、頼家(2代将軍)が後を継いだが北条市に暗殺される。その後、実朝(さねとも)も源頼朝が建てた鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で公卿(くぎょう・頼家の子)に命をうばわれる。こうして源氏の将軍はうちわもめの結果、たったの27年で幕を閉じた。
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
北条政子(ほうじょうまさこ・1157~1225年)
北条政子(ほうじょうまさこ・源頼朝の妻)は、初代執権(しょだいしっけん・将軍の補佐)・北条時政(ほうじょうときまさ)の娘。頼朝の死後、自ら出家、「尼将軍(あましょうぐん)」として幕府で活躍する。
承久の乱(じょうきゅうのらん)【1221年】
源実朝(みなもとのさねとも・3代目将軍)の死後、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・)が政治を取り戻すチャンスとみて鎌倉幕府に戦(いくさ)をいどむ。朝廷の敵となった全国各地の御家人たちはあわてた。そこで北条政子(ほうじょうまさこ・頼朝の妻)が「頼朝様の恩は山よりも高く、海よりも深い」と御家人に演説。心を打たれた御家人たちは戦いを決意する。これが1221年、「承久の乱(じょうきゅうのらん)」である。
勝敗:(〇)北条政子【幕府軍】vs(✕)後鳥羽上皇【朝廷軍】
北条政子ゆかりの地・安養院(神奈川県鎌倉)
瀬田橋の合戦(せたばしのがっせん・京都)で朝廷軍は瀬田橋の橋板(はしいた)を外して幕府軍が攻め込むのを防ぐ。幕府軍は筏(いかだ)をつくって川を渡り勝利した。
執権政治(しっけんせいじ)【1247年~】
源氏の将軍による政治が終わった後の鎌倉幕府は、朝廷の藤原氏(ふじわらし・公家)から新しく将軍をむかえたが、政治の実権は北条氏(ほうじょうし)を含んだ有力な御家人(ごけん・幕府の武士)たちがにぎっていた。承久の乱の後、北条泰時(ほうじょうやすとき・3代目執権)は御家人たちのトップとなり、「御成敗式目(ごせいばいしきもく・武士の法律)」をつくって守護(しゅご)や地頭(じとう)の仕事や裁判のやり方を定めた。ほかにも「評定衆(ひょうじょうしゅう・有力御家人15人)」をえらんで、重要な政策などを決定した。1247年、北条時頼(ほうじょうときより・5代執権)は北条氏にはむかう有力な御家人たちを次々と滅ぼしてさらに強い実権をにぎるようになる。1252年、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)から11歳の皇子・宗孝親王(むねたかしんのう)を将軍にむかえる。当然、おさない将軍は政治ができないので5代執権・時頼が実権を持って幕府をうごかした。これが「執権政治(しっけんせいじ)」である。
執権(しっけん)
執権とは将軍に代わって政治をする人。聖徳太子のように、女性やおさない天皇の代わりとなって政治をする「摂政(せっしょう)」や藤原氏のように摂政だけでなく、大人の天皇に代わって政治をする「関白(かんぱく)」。白河上皇がおこなった、天皇の位をおさない子にゆずって政治をする「上皇(じょうこう)」などに似たもの。
北条泰時(ほうじょうやすとき・1183~1242年)
3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき・時頼の祖父)は、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」や「評定衆(ひょうじょうしゅう)」をつくった。
鎌倉の大仏(かまくらだいぶつ・1252年)
銅製(どうせい)でつくられた巨大な鎌倉の大仏(かまくらのだいぶつ・神奈川県鎌倉市)。当時、鎌倉幕府が関わったとされる大きな大仏殿(だいぶつでん)があったとされる。しかし、室町時代におきた津波で大仏殿は流されてしまい、鎌倉大仏のみとなった。
鎌倉の大仏(神奈川県)
仏教(ぶっきょう)の教え
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、源平の戦い(げんぺいのたたかい)や承久の乱(じょうきゅうのらん)などが続いて人々は不安と混乱の中にいた。奈良時代に広まった最澄(さいちょう)の天台宗や空海(くうかい)の真言宗は、そんな彼らを救おうとしなかった。そこで法然(ほうねん・1133~1212年)は、浄土宗(じょうどしゅう・知恩院)を開いて「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えれば、誰でも極楽浄土(ごくらくじょうど・安楽な世界)で生まれ変われるとした。庶民は仏教の勉強や修行をすることができなかったので喜んでこれを受け入れた。こうして続く法然の弟子・親鸞(しんらん・1173~1262年)は、罪深い人こそ極楽浄土に行けるとして「阿弥陀如来(あみだにょらい)」を説き、浄土真宗(じょうどしんしゅう・本願寺)を開いた。一方、日蓮(にちれん)は法華経(ほけきょう)のみが正しいとして日蓮宗(にちれんしゅう・久遠寺)を開き、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と唱えた。栄西(えいさい・1141~1215年)は座禅(ざぜん)の力をつかった臨済宗(りんざいしゅう)、道元(どうげん・1200~1253年)はひたすら座禅をおこなって悟りをおこなう「曹洞宗(そうとうしゅう・永平寺)」を開いた。ちなみに鎌倉時代、道元は野菜や米などで肉の味をひきだす「精進料理(しょうじんりょうり)」を宋(そう・中国)で学んだ。そのため今の日本料理に大きく貢献した人物とされている。
文永の役(ぶんえいのえき)【1274年】
1271年、モンゴル帝国と分裂したモンゴル民族は元(げん・中国)をつくった。フビライ(元の皇帝)は、鎌倉幕府に使者をおくって自分に従うように要求。この要求を無礼だとして北条時宗(ほうじょうときむね・8代執権)はきっぱりと断る。怒ったフビライは、3万人の元軍を乗せた約900隻(せき・船)を対馬(つしま・長崎県)と壱岐(いき・長崎県)に攻め込ませた後、九州北部の博多湾(はかたわん・福岡県)に上陸させた。当時の日本では見たことがない元軍の空中火薬兵器「てつはう」や、集団戦法に御家人たちは苦戦したが、突然の暴風雨が味方について元軍が撤退して助かった。これが1274年の「文永の役(ぶんえいのえき)」である。
勝敗:(〇)北条時宗【日本軍】vs(✕)フビライ・ハン【元軍】
弘安の役(こうあんのえき)【1281年】
およそ14万の元軍を乗せた約4400隻の船が九州北部に再びやってきた。北条時宗(ほうじょうときむね)はフビライが再来するだろうと予想して、博多湾の沿岸に「石垣(いしがき・高さ2mの20kmにわたる石の壁)をつくっていた。御家人たちも元軍の集団戦法や火薬兵器を一度体験していたので冷静に対応することができた。激しい戦いの中、文永の役と同じような暴風雨が起こり、元軍の船がほとんど海へと消えていった。こうして幕府と御家人は勝利して日本を守りきった。これが1281年、「弘安の役(こうあんのえき)」である。
勝敗:(〇)北条時宗【日本軍】vs(✕)フビライ・ハン【元軍】
鎌倉幕府が滅ぶ【1333年】
2度にわたる宋(中国)との激戦に貢献した御家人(幕府の武士)たちだが、褒美になる土地がなかったので代わりとして金貸しからの借金をチャラにしてあげた。しかし借金はなくなったが、御家人たちに金を貸す「金貸し」がいなくなってしまった。こうして御家人は、「鎌倉幕府」に不満がたまっていく。一方、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は幕府から政治の実権を取り戻そうと計画をたくらんでいた。後醍醐天皇は幕府に計画がばれて隠岐島(おきのしま・島根県)に追放されたが、隠岐島から脱出して全国の不満がたまった武士たちに幕府を倒すようにしむけた。すると足利尊氏(あしかがたかうじ・有力な御家人)が幕府をうらぎって京都にある幕府の役所を落とした。新田義貞(にったよしさだ・御家人)は武士の大軍を連れて鎌倉にせめこんだ。こうして鎌倉幕府は滅んだ。
まとめ
- 1185年…源頼朝が鎌倉幕府をひらく。
- 1192年…源頼朝が征夷大将軍に任命される。
- 1221年…後鳥羽上皇が幕府から政治の実権を取り戻そうと承久の乱を起こす。
- 1247年…おさない将軍に代わって5代執権・時頼が「執権政治」で幕府を動かす。
- 1274年…宋の皇帝・フビライと北条時宗の国と国の戦い「文永の役」が起こる。
- 1281年…フビライと時宗の二度目の戦い「弘安の役」で勝利する。
- 1333年…鎌倉幕府が滅ぶ。
以上で鎌倉時代【日本の歴史】まとめとなります。
ありがとうございました。
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