陰陽師(おんみょうじ)とは、古代日本の律令制で中務省の陰陽寮に属した官僚の1つ。陰陽五行思想を主とした陰陽道によって占筮(せんぎ)や地相などを仕事とする官僚を指します。
- 陰陽師とは
- 陰陽の歴史
- 呪術・道具
それでは陰陽師とは何か確認していきましょう!
陰陽師の歴史とは?
冒頭の説明文では、脳みそが理解するのを拒否してしまいました。ちょっと本気出して陰陽師とは何者なのか、探っていきます(笑)
※分かり易いように現代の言葉に置き換えて説明する部分もあります。
詳細説明:
中国が唐(とう)と呼ばれていた時代に、律令制という国家体制が出来ました。これは、今で言う法律みたいなものと捉えて下さい。日本が飛鳥・奈良・平安時代の頃に、中国(唐)の律令性をモデルとして律令体制を敷き、「律令国家」を築きました。その律令制(法律)の下、中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮(部署)に配属された官職(国家公務員)を陰陽師と言います。
用語解説:
- 律令制…今でいう法律のこと。
- 国家体制…憲法に基づく国の仕組み。現代で言うと立法・司法・行政権。
- 陰陽寮…官職(国家公務員)が属した国家機密機関。
- 中務省…律令制における八省のうちの1つ。朝廷(天皇)の補佐や詔勅(しょうちょく)の宣下や叙位(じょい)など朝廷の職務全般を担っていた最も重要な省です。
- 詔勅…天皇の意志を伝える書。
- 宣下…天皇の命令を伝える公文書を公布すること。
- 叙位…高い地位を人に授けるときの儀式。
歴史的背景:
飛鳥時代
595年(推古天皇3年)の時、聖徳太子(総理大臣)が、高句麗(中国)の僧(名前:恵慈)から勉強して日本に伝えました。風水(地相)・占い・天体観測・暦の作成・時刻の管理の学問を広め、理論的に分析・予言したのが起源と言われています。
そのため、日本で最初の陰陽師は聖徳太子じゃないかと囁かれいます。
当時は陰陽師と言わず、陰陽五行説の思想を持つ集団を「陰陽家」と呼んでいたそうです。
厳密に言うと、既に古墳時代に日本に存在していたようですが、陰陽五行思想が難しくてあまり定着しなかったそうです…。
奈良・平安時代
中国から伝来した仏教と道教に日本古来の神道と密教を融合させて、日本独自の学問が出来ました。それが陰陽道です。
この頃の貴族は、政権争い、戦さに明け暮れては、よくたたりや怨霊に怯えていました。陰陽師は、敗北した怨霊や鬼の気持ちを静め、人々を守ったと言われてます。有名な菅原道真、平将門の怨霊を陰陽師が静めた逸話を知る人も多いはずです。
しかし一方で、己の欲望のために民や貴族を騙した悪い陰陽師も存在したようです。それが原因で国家機密の陰陽道が外部に漏れ、隠れ陰陽師・民間陰陽師が次第に増えて、呪術の色と形を変えて世に広がっていきました。こうして徐々に陰陽師の風評被害が広がり始めます。
鎌倉時代
鎌倉・室町時代に入ると、朝廷(天皇)の力が次第に衰退し、陰陽師も陰陽道の漏れと風評被害が原因で勢力を失いつつありました。
戦国時代
まさに戦乱の時代です。陰陽寮に属する陰陽師に耳を貸すものは一気に減り、二大勢力だった賀茂屋は血筋が完全に断絶。残る安倍家も衰退しました。
民間では怪しげな儀式や呪術が広まり続け、おまけに戦国時代を代表する軍師は陰陽道を戦の知識として用いた者が多かったそうです。
天下の豊臣秀吉は陰陽師を嫌い、完全に弾圧。宮廷内の由緒正しき陰陽道は終わりを迎えます。
陰陽寮の陰陽師及び各博士(先生)
奈良から平安時代に登場した最も有名な陰陽師と言えば、安倍晴明です。朝廷では、賀茂家と安倍家の二大勢力を中心に陰陽寮(国家機密機関)を動かしていました。
四等管制を敷き、陰陽頭をはじめ、陰陽博士(担任:計4名)と実践的で技術的な陰陽師、その他、庶務(事務雑務)の担当で陰陽寮は成り立っていました。
各担任
- 陰陽頭…全ての総括担当(1名)
- 陰陽師…占筮(占い)、地相(方位)の専門職(6名限定)
- 陰陽博士…陰陽師を養成担当(1名)
- 天文博士…天文観測に基づく占星術の行使・教育主任(1名)
- 暦博士…暦の編纂、作成の教育担当(1名)
- 漏刻(水時計)博士…水時計の管理及び時報担当(2名)
※安倍晴明(あべのせいめい)は、天体博士が天体観測中に異常現象が観測された場合に任命されたこともあったそうです。因みに、安倍晴明は頭ではありません。
学生
博士の下で勉強する学生(修習生)は、天文・陰陽・暦の3道それぞれに10名ずづおり、博士を目指す得業生(2~3名)いたそうです。
陰陽師が使った呪術・式神は本当⁉
陰陽師が使ったとされる呪術・式神一覧。本当なのか謎を紐解いていきます。
①九字(くじ)
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を唱えながら、印を結ぶ。または、四縦五横に切る動作を伴う呪文のこと。
②喼急如律令(きゅうきゅうにゅりつりゅ)
「早々に退散せよ」の意味で悪い鬼を祓う呪文。
③六壬式盤(りくじんしきばん・りくじんちょくばん)
吉凶を判断する道具。
④渾天儀(こんてんぎ)
天文観測に使った道具。災いや天変地異を観測した。
⑤呪符・霊符
紋様や呪文が記された護符。セーマンドーマン、五芒星や六芒星などがある。「喼急如律令」の呪文を唱えながら書いた呪符。
⑥人形(ひとがた)
紙や木材、藁や草葉で人の形を作り、患部を撫でることで己の穢れを人形に移して祓う道具。男女二人の人魚うを一つに祈祷(きとう)し、恋愛成就を祈る場合も用いられる。対照的に、有名なのが丑の刻参りの藁人形がある。
⑦式神(しきがみ)
陰陽師がよく使ったとされる使役神。精霊に仕事や護衛をさせる。
⑧禹歩(うほ)
呪文を唱えながら大地を千鳥足で踏みしめて歩く呪法。北斗七星の柄杓(ひしゃく)をかたどってジグザグに歩く、片足をひきずりながら歩いて、地面に図形を描くといやり方もある。
⑨五行占霊(ごぎょうせんれい)
陰陽五行思想に基づいた木・火・土・金・水の5つの気にあやかって行われる占術の呪術。
陰陽師の爪痕
江戸時代、徳川家康の世となりました。徳川は陰陽道に息を吹きかけ、安倍家の子孫を宗家とし、陰陽師を再開します。
徳川綱吉の時代になり、政治にこそ影響はなくなりましたが、安倍晴明を崇拝していた民家陰陽師を中心に暦を作成、建築物の地相(風水)を使って本来のあるべき陰陽道が再び定着していきました。
そうして、時代は明治初期へ。
「近代科学の導入の妨げとなる」そう考えられた陰陽道は、「迷信」という刻印を押され、明治3年に陰陽寮は完全に廃止となりました。
呪禁師の蟲毒(こどく)
平安時代に陰陽寮と同じ朝廷内に典薬寮というものがありました。そこに属していた道教の呪術に影響された呪禁師(じゅごんし)という者達が存在しました。呪禁、呪術を使って病となる邪を祓い治療するのが主な仕事です。
彼らは、そこで、厭魅蟲毒(えんみこどく)という呪禁を利用したのですが、事件が相次いで続出。呪禁師は廃止、その仕事は陰陽寮に引き継がれることになりました。
そのため、
安倍晴明の呪詛や呪詛返しが本当にあった可能性はあるかもしれません。
まとめ
陰陽師の歴史とは?呪術と式神は本当?
- 陰陽道とは日本古来の独自の学問で、陰陽師は超エリート頭脳派集団
- 国家機密の陰陽道を外部に漏らし悪だくみする陰陽師も増えてしまった。紆余曲折あったが、結果として陰陽寮は勢力を弱め、明治初期に完全に廃止となった。
- 現代では、陰陽寮がないため正式に「陰陽師」と名乗るのは難しい。陰陽道の知識を本当に持ち正しく使う人もいれば、そうじゃない人もいるため。
そう言った意味では、
どの時代でも陰陽師の存在は、陰でもあり陽でもある。
以上でまとめとなります。参考になれれば嬉しいです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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