陰陽師とは、古代日本の律令制で中務省の陰陽寮に属した官僚の1つ。陰陽五行思想を主とした陰陽道によって占筮や地相などを仕事とする官僚を指します。
なにやら慣れない言葉がたくさん並んでありますね。少し分かり易く嚙み砕いて説明したいと思います。
さて、陰陽師の歴史から彼らの正体を以下で探っていきましょう。
陰陽師の歴史とは?
結論から言うと、陰陽師とは天文学からきた占星術、風水の方位学、暦や節季の予測、地相学を活かした都市開拓、気象予報を行っていたスーパーエリート頭脳派集団でした。今の時代に例えるなら、国家公務員です。
陰陽師の正体が分かったので、もう少し彼らの正体を歴史から紐解いていきたいと思います。
日本の飛鳥から平安時代にかけて、唐(中国)の法律をモデルにつくられた律令制(法律)が陰陽師の歴史の起源だったとされています。そして、その律令制の下に敷かれた国家体制(憲法)や中務省(朝廷の職務全般を任せられた省)、陰陽寮(国家機密機関)に配属された官職(国家公務員)を陰陽師と呼んでいたとのことでした。
中務省に務めていた彼らは、天皇に代わって詔勅(天皇に代わって意志を伝える書)を読んだり、宣下(天皇の命令が書かれた公文書を公布すること)をする大事な役目を任されたいたようです。天皇からの信頼が厚かったので、叙位(高い地位を人に授ける儀式)などもこなしていたのこと。
それでは次に、陰陽師の活躍から衰退までをそれぞれの時代から遡っていこうと思います。
日本最古の陰陽師は誰?(飛鳥時代)
595年(推古天皇3年)、聖徳太子(推古天皇に代わって政治をしていた摂政)は、中国が高句麗と呼ばれていた時代にいた僧(恵慈)から学んだ陰陽五行思想を日本に伝えました。言い伝えによれば、風水(地相)や占い、天体観測や暦の作成、更には時刻の概念を理論的に分析したもので、陰陽道の起源とされています。そのため日本最古の陰陽師は、後に登場する安倍晴明らではなく、聖徳太子と言われているのです。
聖徳太子
彼が最古の陰陽師として周知されていない理由の一つに、陰陽五行思想が難しすぎて浸透しなかったことが原因と考えられています。陰陽師でなく、陰陽家と呼ばれていたことも理由とされているようです。
陰陽師の活躍と風評被害(奈良~平安時代)
中国から伝来した仏教と道教に日本古来の神道と密教を混ぜた日本独自の学問「陰陽道」が奈良、平安時代に完成します。これがきっかけとなり、陰陽道を使う集団は陰陽師と呼ばれるようになりました。当時、陰陽師の二大勢力として登場したのが安倍家と加茂家です。彼らは、陰陽道を使って自然現象や超常現象だけでなく、吉凶の占いや貴族への助言、学者として活躍していたようです。
安倍晴明を祀る晴明神社
奈良、平安時代の貴族たちは、政権争いや戦さに明け暮れていたので祟りや怨霊によく怯えていたらしく、陰陽師はそれらから人々を守っていたようです。菅原道真や平将門の怨霊を安倍晴明が静めた話は有名です。
※編集中
しかし、人々のために活躍した裏で悪い陰陽師も登場しました。朝廷が貧しくなると、国家機密の陰陽道が外部に漏れ、隠れ陰陽師・民間陰陽師が次第に増えて、呪術の色と形を変えて世に広がっていきました。こうして徐々に陰陽師の風評被害が広がり始めます。
平将門の将門塚
鎌倉時代
鎌倉・室町時代に入ると、朝廷(天皇)の力が次第に衰退し、陰陽師も陰陽道の漏れと風評被害が原因で勢力を失いつつありました。
戦国時代
まさに戦乱の時代です。陰陽寮に属する陰陽師に耳を貸すものは一気に減り、二大勢力だった賀茂屋は血筋が完全に断絶。残る安倍家も衰退しました。
民間では怪しげな儀式や呪術が広まり続け、おまけに戦国時代を代表する軍師は陰陽道を戦の知識として用いた者が多かったそうです。
天下の豊臣秀吉は陰陽師を嫌い、完全に弾圧。宮廷内の由緒正しき陰陽道は終わりを迎えます。
陰陽寮の陰陽師及び各博士(先生)
奈良から平安時代に登場した最も有名な陰陽師と言えば、安倍晴明です。朝廷では、賀茂家と安倍家の二大勢力を中心に陰陽寮(国家機密機関)を動かしていました。
四等管制を敷き、陰陽頭をはじめ、陰陽博士(担任:計4名)と実践的で技術的な陰陽師、その他、庶務(事務雑務)の担当で陰陽寮は成り立っていました。
各担任
- 陰陽頭…全ての総括担当(1名)
- 陰陽師…占筮(占い)、地相(方位)の専門職(6名限定)
- 陰陽博士…陰陽師を養成担当(1名)
- 天文博士…天文観測に基づく占星術の行使・教育主任(1名)
- 暦博士…暦の編纂、作成の教育担当(1名)
- 漏刻(水時計)博士…水時計の管理及び時報担当(2名)
※安倍晴明(あべのせいめい)は、天体博士が天体観測中に異常現象が観測された場合に任命されたこともあったそうです。因みに、安倍晴明は頭ではありません。
学生
博士の下で勉強する学生(修習生)は、天文・陰陽・暦の3道それぞれに10名ずづおり、博士を目指す得業生(2~3名)いたそうです。
陰陽師が使った呪術・式神は本当⁉
陰陽師が使ったとされる呪術・式神一覧。本当なのか謎を紐解いていきます。
①九字(くじ)
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を唱えながら、印を結ぶ。または、四縦五横に切る動作を伴う呪文のこと。
②喼急如律令(きゅうきゅうにゅりつりゅ)
「早々に退散せよ」の意味で悪い鬼を祓う呪文。
③六壬式盤(りくじんしきばん・りくじんちょくばん)
吉凶を判断する道具。
④渾天儀(こんてんぎ)
天文観測に使った道具。災いや天変地異を観測した。
⑤呪符・霊符
紋様や呪文が記された護符。セーマンドーマン、五芒星や六芒星などがある。「喼急如律令」の呪文を唱えながら書いた呪符。
⑥人形(ひとがた)
紙や木材、藁や草葉で人の形を作り、患部を撫でることで己の穢れを人形に移して祓う道具。男女二人の人魚うを一つに祈祷(きとう)し、恋愛成就を祈る場合も用いられる。対照的に、有名なのが丑の刻参りの藁人形がある。
⑦式神(しきがみ)
陰陽師がよく使ったとされる使役神。精霊に仕事や護衛をさせる。
⑧禹歩(うほ)
呪文を唱えながら大地を千鳥足で踏みしめて歩く呪法。北斗七星の柄杓(ひしゃく)をかたどってジグザグに歩く、片足をひきずりながら歩いて、地面に図形を描くといやり方もある。
⑨五行占霊(ごぎょうせんれい)
陰陽五行思想に基づいた木・火・土・金・水の5つの気にあやかって行われる占術の呪術。
陰陽師の爪痕
江戸時代、徳川家康の世となりました。徳川は陰陽道に息を吹きかけ、安倍家の子孫を宗家とし、陰陽師を再開します。
徳川綱吉の時代になり、政治にこそ影響はなくなりましたが、安倍晴明を崇拝していた民家陰陽師を中心に暦を作成、建築物の地相(風水)を使って本来のあるべき陰陽道が再び定着していきました。
そうして、時代は明治初期へ。
「近代科学の導入の妨げとなる」そう考えられた陰陽道は、「迷信」という刻印を押され、明治3年に陰陽寮は完全に廃止となりました。
呪禁師の蟲毒(こどく)
平安時代に陰陽寮と同じ朝廷内に典薬寮というものがありました。そこに属していた道教の呪術に影響された呪禁師(じゅごんし)という者達が存在しました。呪禁、呪術を使って病となる邪を祓い治療するのが主な仕事です。
彼らは、そこで、厭魅蟲毒(えんみこどく)という呪禁を利用したのですが、事件が相次いで続出。呪禁師は廃止、その仕事は陰陽寮に引き継がれることになりました。
そのため、
安倍晴明の呪詛や呪詛返しが本当にあった可能性はあるかもしれません。
まとめ
陰陽師の歴史とは?呪術と式神は本当?
- 陰陽道とは日本古来の独自の学問で、陰陽師は超エリート頭脳派集団
- 国家機密の陰陽道を外部に漏らし悪だくみする陰陽師も増えてしまった。紆余曲折あったが、結果として陰陽寮は勢力を弱め、明治初期に完全に廃止となった。
- 現代では、陰陽寮がないため正式に「陰陽師」と名乗るのは難しい。陰陽道の知識を本当に持ち正しく使う人もいれば、そうじゃない人もいるため。
そう言った意味では、
どの時代でも陰陽師の存在は、陰でもあり陽でもある。
以上でまとめとなります。参考になれれば嬉しいです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
コメント